約 263,485 件
https://w.atwiki.jp/buddha/pages/40.html
テキスト 瑩山禅師本『羅漢供養式』 瑩山禅師本 大正大蔵経 道元禅師本 『道元禅師全集』2010、17巻、251頁 論文 東 隆眞「道元禅師と羅漢講式について」 []内は道元禅師本 +は添加 -は欠落 長い異同は** で挟んだ瑩山禅師本が[]内道元禅師本に対応する 十六尊名は道元禅師本は「第一賓頭羅波跋羅墮闍尊者」と「尊者」が後置され、「洲」が「州」と記されるが煩雑なので異同は特記しない 道元禅師本は新字になっているが、これも原本は当然旧字であり異同は特記しない。 句読点の異同も同じく編集時に付加されたもので特記しない。 両本には若干割注があるが、これも煩雑なので省いた。 [これ以前は省略] T2589_.82.0435b02 一明住處名號。二明興隆 T2589_.82.0435b03 利益。三明福田利益。四明[讃]除災利益。五供 T2589_.82.0435b04 世尊舍利[+矣]。第一明住處名號者。法住記曰[云]。 T2589_.82.0435b05 第一尊者賓頭羅[波]跋羅墮闍。住西瞿陀尼洲。 T2589_.82.0435b06 第二尊者迦諾迦伐蹉。住迦濕彌羅國。第三 T2589_.82.0435b07 尊者迦諾跋釐[里]墮闍。住東勝身洲。第四尊者 T2589_.82.0435b08 蘇賓陀。住北倶盧洲。第五尊者諾距羅。住 T2589_.82.0435b09 南瞻[贍]部洲。第六尊者跋陀羅。住耽沒[没]羅州。第 T2589_.82.0435b10 七尊者迦理迦。住僧伽荼州。第八尊者伐闍 T2589_.82.0435b11 羅弗多羅。住鉢[盋]刺多弩[太挐]州。第九尊者戒[戎]博迦。 T2589_.82.0435b12 住香醉山。第十尊者半託[詑]迦。住三十三天。 T2589_.82.0435b13 第十一尊者羅怙羅。住畢利颺衢州。第十二 T2589_.82.0435b14 尊者那伽犀那。住半度波山。第十三尊者因 T2589_.82.0435b15 掲陀。住廣脇山。第十四尊者伐那波斯。住 T2589_.82.0435b16 可住山。第十五尊者阿氏多。住鷲峯山。第十 T2589_.82.0435b17 六尊者住荼半託迦。住持軸山。各[-各]各領百千 T2589_.82.0435b18 之大羅漢。以爲眷屬。遊化諸方。聚散不定[随時] T2589_.82.0435b19 也[-也]。或住玉樓金閣[金閣玉樓]。獨[而]坐禪入定。或居海岸 T2589_.82.0435b20 仙[山]窟。爲禽獸説法[而説法度生]。或往天堂行布薩。或 T2589_.82.0435b21 遊人間。説戒論。若欲勸請者。向所住[+之]方。 T2589_.82.0435b22 燒香散華[花]。可[須]行禮拜。一請一來。三請三來。 T2589_.82.0435b23 百度千度亦復如是。如月浮水。必無不至[到]。 T2589_.82.0435b24 仍大衆憑接[誓]約。可誦伽陀[+行礼拝]。頌曰 [道元禅師本欠落] T2589_.82.0435b29 第二明興隆利益者。夫佛於[-於]拘[倶]尸那城娑羅 T2589_.82.0435c01 林間歸圓寂時。召賓頭留[+尊者]等十六羅漢。[+而]摩 T2589_.82.0435c02 頂言。以我無上正法。付屬汝等。我滅後彌 T2589_.82.0435c03 勒已前。不入涅槃。當興我法。利益衆生。 T2589_.82.0435c04 我化縁已盡。設住世無益[+云云]。於茲十六尊者。 T2589_.82.0435c05 聞金口遺屬。啼泣[+猶]如小兒。不覺[+而]投一鉢。悶 T2589_.82.0435c06 絶[+而]躃地。佛再慰諭[喩]。如蘇[蘓]而起。歛涙頂受[+自言]不 T2589_.82.0435c07 違佛勅云云。然則自迦葉[+尊者]形遁[永入]雞足。阿難[+尊者] T2589_.82.0435c08 身分[留滅]恒河已來。*四依菩薩。勵弘經力。亦不 T2589_.82.0435c09 如此等羅漢*。神通延命[壽]。[+而]遙待慈氏下生。遺 [余聖之化物力、敢不及十六尊者者歟] T2589_.82.0435c10 誡稱勅[佛勅在心]。[+以]能護末世佛[遺]法[+矣]。所以[-所以]此洲人壽。至 T2589_.82.0435c11 十歳刀兵劫起。佛法漸[暫]滅。増至百載。尚羅 T2589_.82.0435c12 漢弘正法。度無量[+衆生]人[-人]。就中如弗沙王。壞育 T2589_.82.0435c13 王塔。燒佛經。害僧尼。三寶名字都以絶。然[矣] T2589_.82.0435c14 惡王死後。羅漢上天*取經卷。下繼既絶跡*。 [上請佛経而下人間、以繼将絶之法] T2589_.82.0435c15 佛日再輝[+世間]。是實其廣恩[羅漢之樹][+功]也。若不然者。我等從 T2589_.82.0435c16 冥入於[-於]冥。不見[-不見]三寶之形[像][+争見]。從苦遇於[-於]苦。 T2589_.82.0435c17 不聞[-不聞]安樂之名[+何聞。今弟子等、幸奉値遇佛法僧之功徳修証]。仍大衆歡喜讃歎[嘆][+行礼拝]。可報紹 T2589_.82.0435c18 隆之恩。[-可報紹隆之恩。]伽陀[陁]曰[+過現当之菩提 唯是羅漢尊者深恩而已] T2589_.82.0435c19 佛正法有二 謂教證爲體 T2589_.82.0435c20 有持設[陁]行者 此便住世間 T2589_.82.0435c21 南無歸命頂禮。十六羅漢利益衆生者 T2589_.82.0435c22 第三明福田利益者。夫一切羅漢皆是衆生[+之] T2589_.82.0435c23 大福田也。*損益之報。不待來世。賞罰之驗。 T2589_.82.0435c24 在於眼前。惱亂招殃。雨土埋都城。供養得 T2589_.82.0435c25 福。雨寶滿王宮*。見形像[+之]者[人]。永離貧苦。稱 [-損益之報。不待來世。賞罰之驗。在於眼前。惱亂招殃。雨土埋都城。供養得福。雨寶滿王宮。] T2589_.82.0435c26 名字[+之]輩。早預擁護[+乎]。法住記云國王大臣長者 T2589_.82.0435c27 居士。若男若女。設大齋會。欲[-欲]施僧衆時。十 T2589_.82.0435c28 六羅漢及諸眷屬大羅漢。隱聖人儀。現種種 T2589_.82.0435c29 形。密[蜜]受供具。令諸施主。得勝果報云云[-云云]。依 T2589_.82.0436a01 之于闐[團]國人。設大齋會。祈請[+于]羅漢。*高原求 T2589_.82.0436a02 。十六羅漢*現乞人身。登齋莚相語云。我 [求水於高原。于時羅漢] T2589_.82.0436a03 念佛勅。故[-故]。赴汝[+之]請。莫[+以]厭却。即以錫杖。築 T2589_.82.0436a04 地隨杖甘泉涌出[+云云]。又婆羅門城有一貧女。泣 T2589_.82.0436a05 耻[恥]罪報。纔得小飯。欲施十六尊者。羅漢哀 T2589_.82.0436a06 彼貧報。現乞丐之相。往受微供。貧女忽轉 T2589_.82.0436a07 形。帝王迎[+而]爲后云云。又濕州居士。供養十 T2589_.82.0436a08 六尊者像。其家富殆如須達。揚州樹下有十 T2589_.82.0436a09 六影[尊]像。[+毎]齋日放光。供者如市。祈願不空。今 T2589_.82.0436a10 弟子等有漏[+之]福報*雖不本意。事善資糧又是 T2589_.82.0436a11 至要。也*。仍大衆歸[禮]十六羅漢。可祈福田利 [不可軽。無窮之聖応、須感悦] T2589_.82.0436a12 益。伽陀曰 T2589_.82.0436a13 十六大羅漢[国王] 無上勝福田 T2589_.82.0436a14 恭敬供養者 自然獲大利 T2589_.82.0436a15 南無歸命頂禮。十六[+大]羅漢*利益衆生者* [生生世世値遇頂戴] T2589_.82.0436a16 第四明除災利益者。案灌頂經意。若當來 [以下道元禅師本欠落]
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/399.html
目次 1.「他力門」の認識不足について 2.宇宙即 我 を生きる「聖道門」 3.「自力」とは、 絶対的自分 に生きること 4.個性向上に努める「自力門」、没個性、脱価値の平等観に堕す「他力門」 5.地獄界に新たにできた 念仏地獄 6.他力の教えは、死の苦痛を和らげる一時的な麻酔薬 7.自力の誤りと「自他力、混一」の悟りへ 8.光一元、善一元の「絶対力論」は、そのまま現世では通用しない 9.道元禅の「時間論」について 10.「悟り」とは何か。大きく分けて二段階 11.だれでも、一躍跳入、如来地には入れない。段階を最高度に発揮し、生きよ 12.未経験の他次元世界の悟りは説けるか 13. 道元禅 の起こりとその基礎 14. 道元禅 の限界について 15.私は今、菩薩界で「愛」について勉強している 16.坐禅だけでは悟れない。学んだ知識を生かし、利他行に励め 6.他力の教えは、死の苦痛を和(やわ)らげる一時的な麻酔薬 道元 それに比べて、たとえば禅をやったりしてね、「自力門」で地獄へ堕ちている人もおります。ただ彼らは、もちろん自分のやり方が悪かったために十分悟っていなかったのですが、私たちが行ってですね、「いや、お前はね、ここのところを十分反省していないぞ。ここのところをもっと徹底的に考えなさい」と、こういうことを言うと、比較的早い時期にね、もう反省を終えて、天国へ還って来ます。彼らは知っていますから。自分自身やらなければ、だれもその借金を返してくれないということを、知っているんです。だから、悟りが早いんです、あの世へ行ってもね。 だから、私はね、"大衆救済"という美名はいいんですが、やはり大衆に受けるものというのは、どこかですね、どこか愚(おろ)かしいものがある。どこかやはりね、心を迷わす麻薬のようなところがある、と思うんです。 ですから、あなた方もね、今の時代であなた方に言うなら、たとえばですよ、『道元禅師霊示集』でも何でもいいから、この本を読めば救われる、と。この本一冊、たとえば、この本を五回読めば、極楽往生間違いなし。あなた、必ず天国へ行けます、と。たとえばですよ、あなたが本の扉に書いたとします。この『道元禅師霊示集』を五回読めば、必ず極楽浄土へ行けます。これは道元禅師が保証していることですから間違いありません、と。あなたがそう書いたとする。それが正しいかどうかです。 どうですか――。私はできるだけ真理を語りますが、しかし、その本が真理の書であるということと、それを各人が、たとえばですよ、五回読めば極楽往生できるということと、これは別のことです。それはその内容をどう受けとめるかという各人の問題があるからです。そうではありませんか。 ですから、他力の教えというのは、まあ一時的なですね、苦痛、死の苦痛をですね、和らげるための麻酔剤にしかすぎないのです。これは、徹底的な治療にならないです。ですから、他力から自力への道はいいんですよ。まだね、途中から心を入れかえて。しかし、それだけしかないと思えば、これはもう救う道がなくなってきます。 阿弥陀様が救って下さると思っていると、道元禅師が言ってもね、「いや、そんな人は救ってくれない」と、突っぱねるのです。「阿弥陀様のお使いですか、あなたは」と。そう聞かれるわけですね。「いや私は、阿弥陀様のお使いではありません」と。 「じゃあ、あなたは、私たちを救ってくれる人ではありません。私たちは阿弥陀如来様のお使いを待っているんです」と、こう言い張ってね、念仏行者が百人も、千人も固まってね、ナンマイダ、ナンマイダとやっているのです。未だにね。岩陰に隠れて、地獄の岩陰(いわかげ)で――ナンマイダ、ナンマイダーとやっているのです。 こんな人たちを他力行者たちは、一体どうやって救おうとしているのか、私はそれを聴いてみたいものです。 ―― それでどうなんですか、そこであくまでも、"弥陀"の救いを待っているということですが、にもかかわらず、一向にお救いがないということに対して、その人たちはイライラと、じりじりとして、反対に、その懐(おも)いを反感の方向へ持っていくような危険性はないのでしょうか。 道元 ですからね、そこがむずかしいのです。五十年、百年やると、まだ南無阿弥陀仏と言っているのに、だれも迎えに来てくれない、と。これはね、やはりこの信仰は間違っているのか、これを捨てて、やはりちょくちょく来る自力の人の言う意見に従おうとする人が、たとえば五百人の集団がおったらね、そういう人が五人、六人とパラパラと出て来るのです。 そうすると、仲間割れがはじまりましてね。地獄でね。そして、あいつらは邪宗にまどわされた異教徒だと。あいつらは破門だと。ののしるわけですね。行こうとすると、破門だと、破門だ、仲間にしてやらないぞと言う。そうすると、行きかけていた人も気になって、やっぱりそうかな、やはりそうだな、念仏で救われるということを私は信じたのだが、やっぱり数の上からいうと多いのだから、皆んなの流れに従って行ったほうがいいかなと、七人抜けようとしたのが四人ぐらい帰って来るのですね、念仏のほうに。で、三人だけが出て行く、そして、皆んな、ののしっているのですね。「あいつら、バカだ。あれは、もっと深い地獄に堕とされるのを知らないのだ。わしらは、まだこんな浅い地獄におるのは、これは念仏のおかげなんだ。それがわかっていないんだ」と。 まあ、こういう仲間割れをずいぶんやっております。まあ、やがてそういうふうに、三人、四人と、パラパラ出て行くんですが、その後、彼らがどうなったかは、残った彼ら念仏行者らは知らないんです。念仏地獄から出て行った人が、その後、どうなったか、知らないですからね。出て行った者たちは、おそらくもっと深い地獄に堕ちて行っていると思われているのでしょう。 7.自力の誤りと「自他力、混一」の悟りへ 道元 もちろん私は、他力というものを否定するものではありません。宗教のなかには、他力というのはあります。祈れば確かに、高級霊が応(こた)えてくれることはあります。それは、あるんですよ――。それは、自カとの相関関係なんですよ。実を言うと、自力によって悟りが高まれば高まるほど、他力の協力がまた、大きくなってくるのです。それは、あなた方にとってもそうです。 あなた方が自分として悟れば悟るほど、私たちの言葉をキャッチしやすくなるはずです。さらに上級の霊たちと話せるようになります。それは、上級の霊たちは、全然悟っていない人のところで、むずかしい説を説くわけにいかないからです。ですから、自力と他力というのは、切り離したものじゃないんです。自他力ですね。やはり自力の程度に応じた他力が与えられる。こういう相関関係があるんです。 まあ、もちろんね、今のは、自力だけをよくして、他力だけを悪く言いましたけれども、私もそういうことでは片手落ちですので、自分のことを反省しておきます。もちろん、自力で地獄へ堕ちた人もおります。先程、言いました。そうした人でも、正しく反省の仕方を教えると、天国へ来るのは早いと言いました。 ただ、自力でもね、また深い地獄に堕ちている人がおります。これは、自分の力を過信した人たちで、これは他力が秀れているところなんです。自分を過信しない。他力の人たちは、それは確かなんですよ。ところが、自力の場合には、自分を過信したと思う人がおるんですね。そして、悟りというのは、非常に個人的なもので、絶対的なもので、相対的にね、あれは悟ったというような状態というのは、なかなかわからないものなんです。 しかし、「正師」ですね。正しい師がおれば、お前は悟ったということを教えてくれるけれども、そういう人というのにはなかなか出会えませんから、実際上は分からないんですね。で、山のなかに篭って五年、十年と修行したら、もう俺は、悟ったんだと、天狗になっちゃう人がおるんですね。実際には、まったく悟っていない。が、悟っちゃった考えを持っておるんですね。自惚(うぬぼれ)ですね。自惚の世界で生きている。こういう人がおるんです。 こういう人というのは、生きていたときにすでに天狗になって、有頂天になっておる。そのまま死んで地獄に行ってしまったら、今度は、また逆に、慣性の法則というのがありまして、そうした修行で悟ったと思ったから、今度はもう、逆の方向へ動くのが大変なんですね。何でまた、自力で悟ったはずなのに、これが間違ったのか、これがわからなくなってくるんですね。正しいモノサシがないと。 ですから、自力門でも、道を間違うと地獄のどん底に行くことがあります。過信してね、天狗になって、間違っているのに、悟ったと思っている人びとに嘘を教えたりしているとそういうことになります。そういう意味で、自力の危険性も、もちろんあります。 おもしろいことに、他力信仰で地獄に堕ちた人たちは、私たち自力で悟った人たちが、高級霊が行って、救っているのですね。そして、自力門で地獄の底へ堕ちている人は、他力門の人が行って、救っているのですね。これもまあ、おかしなことだなと、私は思っているのですが、そういう自力門で地獄に堕ちたという人は、要するに、そうした謙虚さがないのですね。神仏の前に謙虚さがないんで、他力門の人が行ってね、それこそ、「阿弥陀如来」の救いの大切さを一生懸命説いています。神仏の前に掌を合わせなさいと、頭を低くして、その慈悲に期待しなさいなどと、他力門の人が行って、救っている姿があります。 たとえば、自力門の人のところに、私、道元が行ってね、「お前は、こういうふうにしろ」と言っても、「いや、派が違う」と、言い返す人がおるんです。「お前のやり方ではない」とね。同じ自力でも、俺は違うんだ、と。とくに密教をやった人などは、まあ、あなたもご関係があるかもしれないけれど、密教をやった人などは、どうもいけないですね。密教をやった人などは、どうもね、悟りというのは、超能力を持つような方向にとられる傾向があるのです。 そして、自分は超能力を受けたのに地獄におるのはどうもおかしいと言い張っているのですね。私は、「いや、そんなんじゃないんですよ、心静かにね、自分の心を鎮(しず)めて、自分のやってきたことを静かに振り顧(かえ)ることが大事ですよ」と訓えるんです。しかし、そういう人は、「それは道徳論じゃありませんか。あなた、そんなこと悟りじゃありません。悟りというのはね、こういう"即身成仏"です。こういうふうな構えをして、こういうふうに念力を込めていると、偉大な奇蹟が起きるんです。それが悟りなんです」と。こう言っている人がおるんです。 こういうのは、密教の行者にとくに多いです。法力ってやつですね。実際、彼らは法力を持っているんです。それは、密教でね。修行すると、法力がついている人がおるんです。法力というものがあって、これは、ある意味では、念の大きさですね。念が強く、大きくなることがあるのです。 ですから、地獄へ行っても力を持っているんですね。自分らは、まだ悟っていると思っているんです。そして、地獄で力を持っているもんだから、けっこう大きい顔しているんです。地獄というのは力の世界なんです。力の強いものが勝つんですね。弱い者は、言うことを聞かざるを得ない。そうするとね、そうした密教の行者などで地獄へ行っている人は、法力があるもんですから、地獄でいばっているんですね。 地獄で何人もの人がね、五人、十人の人が襲いかかっても、「エイッ」とね、手で九字を切るとね、皆んな、ボーンと遠くへ飛ばされてしまう。どうだ。俺様の力はと言っているのですね。そうすると、皆んな、ヘェヘーと平伏しているわけですね。最初来たときにはね、自分は地獄におるんじゃないかと、暗くて、うす暗くて、どうも変だなと思っていたんでしょう。そういう人が、だんだん眼が慣れてきて、棲(す)むのに慣れてきて、そして、自分の法力を過信してやりはじめると、今度は、周囲(まわり)の人を従えていくのに快感を覚えていくようになります。だんだんね、――俺の言うことをきかないと、お前を動けなくしてしまうぞとかね、金縛(かなしば)りですね。こんなことをやっているわけです。あるいは、岩を持ち上げたり、砕いたり、こんなことがだんだんできるようになるわけです。 日本の山岳信仰の行者にも、滝行やっていた人たち、皆んな、念力が強くなっていますから、地獄でいばっているわけです。で、こういう人たちが、千年ぐらい経つと、地獄の悪魔になってくるんです。最初は元の行者として、あるいは、密教行者として、仏の道を修行していたという気持ちがあったのが、だんだんそれもなくなって、力だけを過信して、要するに、他人が自分に従うのが楽しいものだから、子分をどれだけつくるかと、そういうことに奔走しはじめるのです。言うことをきかすのにね。まあ、人間そういうところありますわね。自分の力に、人が従うのがおもしろいですからね。ただ、こういうのをいけないと思うか、思わないかという一線があるわけですね。こういう世界なのです。 大体悪魔とかいうのは、東洋で言うと、そういう自力論者の法力だけを求めた人たちだけが悪魔になっているし、西洋でももちろんあります。そういう人たちは、これはまた、始末におえないのですね。念仏行者では、まだ、なかなか悪魔になりにくいのですけどね、お題目唱えているだけでは。そういう意味では、他力信仰の方がたというのは、地獄に堕ちても、まあ低いところの地獄におるということは、確かに言えるかもしれない。そう深い地獄までは、なかなか行かないかもしれない。ところが、自力の人で、間違って地獄へ行った場合には、かなり深いところまで行ってしまうこともあります。方向が間違えばね。 その代わり、天上界でも同じことが言えるのですね。念仏唱えていて天上界へ入った人も、そう高い悟りではないですね、はっきり言って、念仏というのは。念仏だけ唱えて、如来菩薩にはなれませんよ。それで、菩薩に還った人は、もともとの心性の高い人ですからね。宗教として、はじめて念仏に出会って、天国に来たという人は、それだけじゃあ無理です。 念仏には、たとえば、人を愛する「愛」がありません。あるいは、自分をつくっていこうとする「努力」がありません。たとえば、六次元神界というのは、自分をつくっていこうとしている人ばっかりが集まっています。努力してね、勉強して自分をつくっていこうとしている人が六次元に集まっていますが、そういう念仏行者では、六次元へさえ入って行けません。それはそのはずです。自分をつくっていこうとしないからです。救いばっかりを求めているんですからね。ましてや、人に愛を与えて生きていくような生き方、七次元の菩薩界の生き方というのは、もっとむずかしいです。そういう意味で、「念仏」による悟りというのは、非常に浅い悟りでしかありません。悟った人もね。 ところが、自力の場合は、体当たりで悟った場合には、やはり菩薩、如来の境地まで行く可能性というのが非常に強いわけです。それは、自分で高めていく、自分で自分を高めていく道というのは、限りがないからです。限りがないのです。そういう自力の修行というのは。 それに比べると念仏には限りがあるのです。限りがないとすれば、何百万回唱えるかということに限りがないぐらいあってね、そんなもので偉くなれるわけがないぐらいは当然のことです。ですから、自分の境地を高めて行くという「段階の法」があるという意味において、自力というのは秀れているのですね。ところが、他力門には、段階の法がないんです。底辺を救おうとしたのかもしれませんが、いわゆる段階の法がない。その意味においては、他力門では、その後、傑出(けっしゅつ)した人物が出ていないはずなのです。出ないのです。 ですから、自力門というのは、そういう師ですね、ちゃんとした指導者さえおれば、皆んな、正しい方向へ行けるのです。ただしかし、その正しい指導者を出すということがむずかしい。そのために、素晴らしい光の指導霊たちが出て、しっかりした教えを残しておかねばいけないということですね。きちんとした"テキスト"を残しておくべきです。そのテキストが間違うと、皆んな、狂ってしまうから。 そういう意味では、あなた方が出している「霊言集」もね、これもひとつのテキストだと思うのです。これを読んでね、心を修正して、間違いのない方向で修行せよということでいいと思うのです。やはりなかを読んでね、書物の中味を読んで、自分の血や肉にして、悟っていただかないといけないんです。 『道元禅師霊示集』の本を置いてね、カバーを枕元に置いてね、――道元さん、救って下さい。道元さん、救って下さい――と言っても、私は返事はしません。私たちは、あの世で修行しているんです。ですから、――道元さん、どうか救って下さい。極楽往生、お願いします――と言っても、私は聴きません。そんなことではないからです。まあ、自力、他力のことをお話ししてきたわけですが、これについて、何かご質問がございますか。 8.光一元、善一元の「絶対力論」は、そのまま現世では通用しない ―― 「自力門」「他力門」のそれぞれの欠陥、長所というもの、あるいは、この教えを信ずる者たちの悟りの浅さ深さによって、その行く霊域というもの、とくにその認識の過った場合の地獄での各人の様態というものを、くわしくお説きになり、お教え下さったと思います。 さて、今ひとつ、第三の境地と申しますか、自力、他力という単一の教えではなく、自、他が合一された「絶対力」の教えというものが、現在日本神道系の方によって称えられているわけでありますが、このような教えに対するお考えというものは、如何なものでしょうか。 道元 まあ、絶対力と言葉で言うのは簡単ですが、その教義の内容について、少し教えていただけますか――。 ―― それは――、神は光一元である。愛一元、善一元である。従って、本来、闇なし、病なし、悪なしである。この高度な光一元の教えを信ずることによって、人びとは、精神だけではなく、この世的にも、物質、家庭、環境にも恵まれ、幸せな人生が送れるということであります。 道元 それじゃあ、「他力」と違わないじゃないですか、どこが違うというんですか――。 ―― いや、それは、先程の他力論とはまた違うのであって、何もしないで、"阿弥陀仏"の名号だけを唱えておりさえすれば、それだけで、「弥陀」は救って下さるんだというのではなくて、あなたもご存知の"観法"によって、それもただ漠然と坐って、無心になろう、無心になろうと念っているのではなく、まず、神の愛を信じ、天地いっさいのものと和解し、すべての人、すべてのものに感謝の念を捧げる。 そして、神は光一元、愛一元、善一元であると信じ、その光と愛と、善なる神の無限の恵みを全身に浴びて、自分が心身ともに神の子として、清浄に浄化されていくと念ずる"観法"を日々行ずる。そうすることによって、自分も、また自分の環境もともに、円満具足(ぐそく)の世界を現出することができるのだという説であります。 道元 私は、その「絶対力」という考えはまやかしだと思います。どうもそれはね、自力と他力のいいところだけを合わせたようなつもりでいるけれども、実際上の問題として、他力のもっと極右ですね、極端な他力だと思いますよ。いわゆる他力以上の、極端な他力だと私は思います。それは、自力と他力のいいところだけを採ったようなつもりで、そして、自分はそれを総合したようなつもりでいるけれども、それは違うと思います、私は。ほんとうの意味で、自力が分かっていません。たとえばですよ、今の考えのなかでは……。 ―― まあ、ご承知かもしれませんが、最近我が国で、"万教帰一"という教えが神道系に出ておりまして、そこでは、先程も申しましたように、三千世界は神の光一元、善一元の世界であるということを認識することであり、その認識の方法としては、その宗派から出ている「法典」を修得することである、と。あるいは、独特の「観法」によって、日々心の浄化をはかることであるというお説であります。 道元 やはり、それは他力です。自力ではありません。なぜなら、その教えには、"反省"というのがない。反省がありますか。 ―― その反省というのが、今ひとつ足りないようにも思いますが――。 道元 ないはずです。少しないではないのです。ないんです、もともと。ただ、そういう仏教を学んでいるから、それらしきことも多少は言うかもしれないけれど、教えのなかに反省がないんです。 仏教の基礎は反省なんです。自分の心の曇りは自分自身が晴らさないでは、晴らしてくれないです。だれもが。これが仏教の基礎です。その考えで言えばですね、反省がないはずです。なぜないかと言えば、曇りが本来ないということなので、曇りがないというから、反省がいらないのです。だから、他力です。自力じゃありません。 ―― 自分は神の子であり、本来善のみ、悪なし、病なしである。それが、曇りが、病があるように見えるのは心の迷いである。この迷える心に神の光を当てれば、それらの現象上の迷妄(めいもう)は消えていくのだと強く信じることであると説かれるわけです。 道元 もちろん、その方向は、素晴らしい人は、ますます素晴らしい人が出て来ます。ただ、間違えば、やはり傲慢(ごうまん)な人、あるいは、狂信者たちが出て来るはずです。あるいは、自分を非常に合理化する、自分の立場を合理化する、非常につごうがいいですね。こういう教えというのは、政治と結びつくと、非常に危険なところがあります。たとえば、政治と結びつけばですよ、闇なし、迷いなし、反省なし、で、好きなようにやればいいんです。そして、それは神の教えだと突っ走ってしまえば、大変な方向へ行ってしまいます。 非常に危険です。なぜなら、ブレーキがないからです。アクセルだけがあって、ブレーキがない教えというのは、非常に危険であります。その教え、あなた、よく見てみなさい。絶対力と言いながら、アクセルはあるけれど、ブレーキはないはずです。アクセルのみあって、ブレーキがない車というのは、非常に危険だということです。それは、道がまっすぐで、他の車がなければ事故は起きません。アクセルだけでいいです。皆んな、まっすぐ走っとればいいけれども、皆んな、同じ方向へ走っとればいいけど、ときどき横から出てきたり、向かいから対向車がくる場合、ブレーキがなくて、どうしますか。 自分は神の子でいいですよ。他の人は、神の子だと思っている人ばかりならいいですよ。皆んな、同じ方向へ走る車だから、アクセルだけあればいいですよ。アクセルはずせば、自然に車は止まっていくでしょう。ところが、対向車というのがあります。人生においては。対向車というのは、これは神の子であると信じていない人たちなのです。ね、対向車がくるのです。そのときに、危ない! やはりブレーキは踏まないといけないではないですか。 ですから、確かにその教えは素晴らしいところがあります。天国においては、そのとおりです。神の子ばっかりが集まっているところでは、それは反省もありませんよ。ね、皆んな、素晴らしく活(い)かしあっていますから、大調和の世界です。それはそのとおりです。 ただ、地上においては、必ずしも正しくない。それは、"神理"の半面しか見ていないということです。地上においては、車でありながら、左側通行ではなくて、右側、走ってくる車もあるんです。地上ではね。そういう混乱した車、あるいは、酒酔い運転ですか、酒を飲んで車を運転することがあるんです。こういう車を避けるためには、やはりブレーキがなければいけないんです。 その教えではね、そういうブレーキというのは、酒を飲んで運転しているとか、右側を走ってくるような車を想定していないんだと、そんなものは、本来、ないんだと、神の子というのはまず間違いがないんだ。神の子というのは、皆んな、左側を通って、車間距離を守って走るんだと、神の子というのは、だからブレーキがいらない。本来、ブレーキいらずだ、と。アクセルのみあればいいと、神の子は、皆んな、左側を一列に並んで、車間距離をとって走るんだと言っているんです。 実際、そうじゃありません。いろんな人がおります。あの世では、そのとおりですよ、しかし、この世では違います。いろいろと乱暴に運転するのがおります。ブレーキがないと困るんです。他の人を信頼して、ブレーキはいらんと言っているけれど、ブレーキはいるんです。 この人生のブレーキというのは何かと言うと、これは反省であります。心の曇りはないと言い切ってもいいけど、やはり出てきます。これを三次元的に見れば、それは真理です。七次元、八次元の人に心の曇りがあるかと言えば、それはないでしょう。おそらく。それはそのとおりですよ。本来、ないです。神様に曇りがあるわけは、ありません。もっと高次元へ行けばです。ただ、三次元という立場に立つなら、それは間違っています。 ですから、その教えを、つまり、「絶対力」というような非常にいい教えだと思っているようだけれど、ブレーキがないところが、私には非常に危険が感じられます。とくに政治権力などと結びついたときには、大変なことになってしまいます。ひとつの権力者を出してしまうことになるでしょう。私は、その教えを知らないわけではありません。その教えを説いた人も、もちろん、光の指導霊であることを私は知っています。 ただね、そういう指導霊がおるときには、その教えは正しい方向におそらく導かれるでしょう。しかし、やがてね、それが時代を下ってきて、凡愚な指導者たちが出て来たときに、大変な間違いを犯すおそれがあるということです。先程も言ったように、その教えは、要するに、自分がやりたいことを合理化する、説得する材料になりやすいからです。反省というブレーキがありませんから、ときの権力と結びついて、神の国を実現するんだなどと、もうやりたい放題やれば、かつてのヒトラーみたいな人間が出ないとは限りません。 ブレーキがないということは、怖いことです。ブレーキをつけることによって、車の構造が変わって、スピードは出ないかもしれないけれど、やはりアクセルとブレーキとがあってはじめて、車というのは進むのです。人生というものも、やはり車によってね、道を運転するようなものです。ですから、アクセルとブレーキと、両方、いるんです。人生においては。まあ、反省のない教えというのは、非常に危険だということ、これだけを私は言っておきます。以上が、自力と他力の大体の話でございますが、それ以外にどうですか、何か質問がございますか。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/398.html
目次 1.「他力門」の認識不足について 2.宇宙即 我 を生きる「聖道門」 3.「自力」とは、 絶対的自分 に生きること 4.個性向上に努める「自力門」、没個性、脱価値の平等観に堕す「他力門」 5.地獄界に新たにできた 念仏地獄 6.他力の教えは、死の苦痛を和らげる一時的な麻酔薬 7.自力の誤りと「自他力、混一」の悟りへ 8.光一元、善一元の「絶対力論」は、そのまま現世では通用しない 9.道元禅の「時間論」について 10.「悟り」とは何か。大きく分けて二段階 11.だれでも、一躍跳入、如来地には入れない。段階を最高度に発揮し、生きよ 12.未経験の他次元世界の悟りは説けるか 13. 道元禅 の起こりとその基礎 14. 道元禅 の限界について 15.私は今、菩薩界で「愛」について勉強している 16.坐禅だけでは悟れない。学んだ知識を生かし、利他行に励め (1986年8月9日の霊示) 1.「他力門」の認識不足について 道元 ――道元です。 ―― 過般お出まし願った節は、私のいたらぬ思いから、禅師のご本意に添(そ)わぬことなどをおうかがいし、大変失礼をいたしました。 本日はそのことを反省し、禅師には、「禅の本義」についてお教えを願い、これを現代及び、後代の人びとにお伝えいたしたいと存じておりますので、よろしくお願いいたします。 道元 わかりました。どうやらここ数日、「他力門」の霊人たちの話ばかりをお聴きになっていたようですが、あなた方の考え方が間違った方向へいってしまうといけませんので、私たち「自力聖道門(しょうどうもん)」の正しい教えを、この際、しっかりと理解し、身につけていただく必要があると思います。 まあ、いくつかの考える柱というものを今日は立てて参りましたが、他力門の後にやるということですから、「他力」と「自力」ということについて、まず最初にお話しないわけにはまいりません。 そこで、現在、私が考えているところで、他力、自力についての話をいたしたいと思います。「他力門」の方がたの説の根拠というのは、どこにあるか。要するに、人間というものは非常に小さなものである。非常にとるに足りない小さなものである。神仏の偉大なる大きさ、その巨大な慈悲、愛、そうした力に比べて、人間というのは、実に小さなものである。この全宇宙のなかにおいて、非常にとるに足りない存在である、と。こういう考えが基礎にあるわけですね。 そういう小さな自分であるからこそ、そうした小さい自分で悟ろうとか、小さい自分で自分を向上させようとか、そういうことを思う前に、その比較(くらべ)ようもない偉大な神仏の力の前に平伏(ひれふ)して、ただその光を全身に浴びて、そして、救われようとする。まあ、こういう考えであろうと思います。 確かに、事実認識としてはそのとおりでありまして、神仏の偉大なる力、偉大なる光、偉大なる光明、偉大なる愛と慈悲、こうしたものの前に、私ども人間の存在というものは、実にちっぽけなものであります。大宇宙に比べたら、ほんとうに小さな一匹の蟻(あり)であり、大海原にたらした一滴の雫(しずく)のような、そうした存在でありましょう。 この認識は、ひとつの認識として正しいのでありますが、ただ私は、これをそのまま受け入れるつもりはありません。なぜなら、宇宙というものは、開けば無限となり、握れば一点となるものであります。握一点、開無限。開無限、握一点。これが宇宙の神秘であります。 あなた方は、宇宙というものを空間的に広がった莫大な大きさ、巨大な大きさだと思っていますが、そうではなくて、ほんの小さなもののなかにも、宇宙というものは隠されているものであります。たとえば、一匹の蟻。そのなかにも、大宇宙があるのです。そして、あなた方の体のなかにも、大宇宙はあるのです。これは心の世界だけでなくて、あなた方の体というものを見ても、大宇宙というものはあるのです。それは極微(きょくび)と極大(きょくだい)の問題であります。あなた方が人間という尺度、つまり、身長一メートル六十センチの尺度で比べたら、大宇宙というのは、無限に大きい遠大な空間であります。 ところが、この尺度自体が、はたして客観的なものであるかは、どうして分かり得ましょうか。あなた方の体というものを、小さな蟻、あるいは蚤(のみ)、虱(しらみ)、あるいは、もっと小さなバクテリヤ、こうしたものを基準として見たならば、あなた方も、たとえようもなく広い大宇宙でありましょう。ですから、あなた方の心臓のなかを駆け巡っている血液、こうしたものとて、太平洋にも比せらるような大変な巨大な海でありましょう。 このように、この宇宙においては、客観的な尺度となるべき存在はないのであります。どんな小さなもののなかにも大宇宙は存在し、どんなに大きいと思うものも、それよりさらに大きな存在から見たならば、ほんの一点にしかすぎないのです。 神仏というものが、どのあたりの位置にあるものかは客観的に話すことはできませんが、おそらく、その神仏の位置から見たならば、この三次元宇宙というものも、非常に小さなごみのような、塵(ちり)のような、芥(あくた)のような、ただ一点にしかすぎない存在であろうと思われるのです。そのような不確かな、相対的に不確かな世界であるならば、相対的に不確かでありながら、絶対的に見れば、極微のものが極大となり、極大のものが極微となる。このような世界でありますから、私たちは、そうしたものの大小というものを考えないのであります。 今、私は、物理的に、物体として極微と極大の話をいたしましたが、これが心の話になると、もっと神秘的なこととなるのです。先程、私は、こういうことを説きました。すなわち、他力門の方がたは、要するに、神仏の慈悲というのは、非常に巨大なものであって、人間というのは非常にちっぽけなものである。そのちっぽけな人間が、心の修行をして悟るなどというのは不遜(ふそん)である。神仏の前に謙虚になりなさい。そして、神仏の前には皆平等である、と。こういうことを説きました。 他力門のよいところは、この平等の思想にあります。これは、実にいいと思います。私は、非常にいいものだと考えています。巨大な神仏というものを考えた場合に、すべての人間は平等であって、巨大なものの前の蟻としての、蟻のような小さなものという意味での平等であるということ。これは、大事な考えとも言えるし、鎌倉期のようなああいう時代には、非常に必要な主張だったと思います。しかし、それはそれとして評価するにしても、人間は小さなものだとして見るのが、私にはいささか不満であります。 人間の心のなかを見たときには、この心の宇宙というのは、また広いものであります。人間の心の広さを知らない人というのは、結局、悟った経験のない人間であります。人間は悟りということによって、どれだけ大きな存在になれるか。これを知らない人は、他力門に行って、そういう教えを受けるのであります。 2.宇宙即"我"を生きる「聖道門(しょうどうもん)」 道元 ところが、いったん、悟りというものを経験してしまうと、人間というのは、とてつもなく巨大な存在だということがわかるのです。心というのは、無限に広がっていくんです。あなた方を包んでいるこの大気も、そして、この大気に覆(おお)われて回転している地球も、月も、太陽も、星も、あるいは、宇宙空間すらも、あなた方の心によってとらえられることができるような存在なのであります。あなた方の心は、このように巨大になることもできるし、小さな一点にとらわれることもできます。 また、悟りというものを通すと、仏教のほうでは、"宇宙即我"という考え方がありますけれども、偉大なる悟りを体験すると、心というのは無限に広がって宇宙大になって、仝宇宙をすっぽりと包み込むような、そうした経験、神秘的な経験というものがあります。 これを宇宙即我の経験、悟りと言いますけれども、こうした経験を経たことのない人間は、非常につまらないものだと思います。しかし、いったん、こうした境地を経験した者にとっては、この人間の心、これは非常に愛すべきものであって、捨てがたいものであります。こんな便利なものはありません。折りたたみ自由であります。伸縮自在、まあ、たとえて言うならば、孫悟空の如意棒のように無限に伸びていくような、そうした力強いものが人間の心であります。この神秘力を知っているのと、知っていないのとでは大違いです。人間の心というのは、そのなかに、実は、そのなかに全宇宙を含んでいるのです。 あなた方は、三次元的な肉体があって、この肉体という殼のなかに、ちっちゃな心というものが収まっていると考えがちでありますが、実は、そうではないのです。それは、視点が違うのであります。あなた方の心そのものは、逆に、肉体をくるんでいるのであります。肉体が心をくるんでいるのではなくて、心が肉体をくるんでいるのであります。 そして、心というのがどういうふうな構造になっているかというと、心というのは、非常に多次元構造になっております。心というのは、何重もの構造になっているのであります。つまり、心のなかには、四次元世界、五次元世界、六次元世界、七次元、八次元、九次元、さらに十次元以降の世界と、このように多重の構造になっておるのです。 すなわち、いわゆるタマネギ型の構造ですね。こういう構造になっていまして、いいですか、まあ、今の図式で言うと、心の一番外側の表面ですが、この表皮の部分が、あなた方の肉体と言われているものなのです。そして、この三次元に現われた肉体というものは、これは何か。心から遊離したものかと言うと、そうじゃないんです。これは、心の表面粘膜(ねんまく)なんです。心というものがすべてであって、この周囲(まわり)に出ている表面的な粘膜的な存在、つまり、あなた方の心を包んでいるもの、これが単なる肉体なんです。ですから、肉体と心というのは別々のものではないんです。 あの世の世界を知り、霊魂の世界を知った人間であっても、ともすれば、肉体と心、肉体と霊というのは違うものだと考えがちでありますが、これは違うものではないのです。不即不離(ふそくふり)であって、四次元以降の世界の三次元的投影が肉体なのです。 ですから、あなた方の肉体というのは、あなた方の心の反映であり、その物質化にすぎないんです。それぞれの肉体、とくに顔がですね、その人の"人となり"を表わすと言いますが、まさしくそのとおりでありまして、心の世界の反映が、三次元的反映が、あなた方の肉体であります。これを、逆に考えてはいけないし、肉体と心というのを対立的に考えてもいけない。それも間違っています。そのようなものなのです。 そうしてみると、あなた方の心というのは、三次元から十次元まで通じているものであります。ですから、それを物体的に小さなタマネギと考えれば簡単ではありますが、そのタマネギの皮のなかの四次元的部分、五次元的部分、六次元的部分、あるいは、九次元的部分というのは、単にタマネギの内部に収まらないのです。この九次元的部分は、すべての九次元的部分に通じており、四次元的部分は、すべての四次元的部分に通じているものなのです。すなわち、あなた方のなかには、無限の宇宙空間が、多次元空間が入っているということなのです。そういうふうなものなのです。肉体に収まっているものじゃなくて、ほんとうは無限に大きく、心のなかのひとつの投影として肉体があるのです。 たとえば、あなた方は、スポット・ライトというものを知っているでしょう。地上に出ている肉体というのは、ちょうどこのスポット・ライトが当たって、舞台に丸い光の輪が映る、この形なんです。これが地上であって、ほんとうは、このスポット・ライトの出ている光源の部分があるのです。これが実は、あなた方の心の世界なのです。スポット・ライトというのは、舞台に映った丸い照明そのものです。これが肉体部分です。ですから、光源がある。その光源というのは、心の世界である、と。こういうことであります。 ですから、神仏や高級霊たちと、地上に来ている人間たちの大小を問うものがあれば、それはある意味で間違っているということです。心のなかは、無限であります。そして、心の構造そのものを見ると、八次元、九次元も心の構造のなかに入っていると言いましたが、これはすべての人間にとって、そうなのです。すべての人間の心のなかには、心性のなかには、必ず如来や菩薩の境地があるのです。 神は、人間を平等につくっておられるのです。あなた方は、ともすれば、この人は六次元の人、この人は七次元菩薩界の人、この人は八次元如来界の人と、こういうふうにいいがちでありますが、そうではなくて、実際には、その人の心のなかには、すべての次元が入っているのです。たとえば、あなたを例にとれば、あなたの心のなかには、如来界の心も入っているんです。もちろん入っています。また、もちろん霊界や幽界の心もあるんです。心の構造のなかで、要するに、どの部分が一番活発に動いている部分かということなんですね。 ですから、九次元意識が一番動いている人は、九次元というところに存在しているわけですが、では、九次元にいる人には三次元的な意識は何もないのでしょうか。たとえば、衣食住ということにも無頓着(むとんちゃく)なのか、あるいは、四次元的な思いというのはないのかと言えば、あるのです。それはあります。一部分にあるんです。しかし、たとえばそれは、引き出しのなかに収まっているようなものなのです。要は、どの部分が一番活発になっているか。ですから、七次元菩薩界にいるという人は、八次元如来界から比べて、低い地位の人だというわけではないのです。 心のなかには、そうした多次元構造がすべて入っていて、菩薩行、つまり愛行ですね、愛行の世界に生きている人たちが菩薩界にいるのでありますが、それは、七次元的心が一番活性化している、そういう人たちの集まりだということなんですね。ですから、そういう上下の考え方をするのは間違っているのです。 すべての人間が、そういう構造としては非常に多重構造にできておって、まあ、たとえば、ランプが点(つ)いているようなものなのですね。ランプが一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と点いていて、今どこに点いているか、そういうことなのです。あるいは、昔の人が、あなた方のところへ出られて、エレベーターの話をされたようでありますけれども、十階建の建物にエレベーターがあって、エレベーターは上ったり下ったりしている。たまたま、今何階におるかというだけであって、すべての人が、十階から下まで上り下りできるんです。こういうふうな心の構造になっておるわけであります。ただ、そのとき、そのときに、立場があって、何階に住んでいるかと、活動しているかと、そういうことが決まっているだけなんです。 ま、そういうふうに心の仕組みというものをくわしく見てみると、これは無限に広いものなんです。そうすると、心、自分の心を探究するということは、実は、宇宙を知ることであり、そしてまた、多次元世界、高級霊を知ることであり、さらにまた、それを通して神仏を知るということなのです。ですから、外(そと)にないんです。 神理は外になく、救いも外にないのです。神理も救いも、自分の内(うち)にあるんです。自分の内なる心、「真我」なる心を徹底的に探究していったならば、そこには、すべての秘密が隠されているんです。ですから、よく"極楽浄土"を求めると言いますが、極楽浄土というのは、西方にあるんじゃないんです。極楽浄土は、その人の心のなかにあるんです。西の方へ行けば偉い人がいて、救って下さるんじゃないんです。雲がたなびいて、天の軍勢が迎えに来てくれるんじゃないんです。 あなた方の心のなかに極楽浄土はあるんです。それを見い出すんですね。天国地獄もあの世の世界ではなく、この世の世界だと言った人がおります。あなた方の心のなかの部分です。あなた方の多重構造のなかの、心のどこの部分が、主としてあなたたらしめているか、あなたとしての特色を持っているか。これが四次元地獄界の人間であったり、八次元如来界の人間だったりする理由であります。 では、天使たちは、地獄を思ったことがないかというと、思ったことがないわけではありません。思うことはできるのです。ただ、そういうことに執(とら)われていないだけですね。自分たちの主として考えていることを、おもに持っているということですね。不自由なもんじゃないんです。 3.「自力」とは、"絶対的自分"に生きること 道元 こういうふうに、人間の心というのは非常に神秘的であり、奥深いものでありますから、「他力」というものは、自他を分離する考えがあるわけです。自と他を分離するのが他力の教えでありますが、「自力」というのは、要するに、他を無視して自力に頼るということじゃないんです。本来、「自他一体」なりというのが、自力の教えなんです。自分のなかにすべてがある、これが自力の教えであって、自分と他人を切り離さないんです。 "阿弥陀如来(あみだにょらい)"というのははるか遠いところにおるのではなくて、阿弥陀如来というのは、自分の心の奥底にひそんでいるものなんです。そういうことを見つめるのが、"自力"であります。自他を切り離さないんですね。自分のなかにすべてを見出していく、「絶対的自分」であります。相対的自分じゃないんです。 相対的自分というのもあります。肉体を持っているあなたと、あなた以外の人とは、相対的自分という面から見れば別なものであります。しかし、絶対的自分、絶対的人間という面から見れば、それは別のものではないのであります。すべての根っ子がつながっているのです。心の世界では、つながっている存在なんです。ですから、認識の基礎がね、「他力」と「自力」とでは違うということです。 まあ、他力も自力もともに、もちろん神仏というものに向かっていく教えなんでしょうが、他力というのは、どうしても自分というものを切り離して、小さなものに押し込めている。そういう傾向があります。これに対して、自力というのは、自分自身のなかに、絶対的自己というものを探究していく教えであります。この自力について、何かご質問があればお答えいたします。 ―― 私が考えますところでは、「自力」「他力」と申しましても、大きな観点から見ますならば、これは神仏の御心(みこころ)、神理に近づいていく上での人それぞれの立場、立場に関わる悟りへのきっかけ、その与えられている方便であろうと思います。 あなたも申されておられるとおり、本来神仏の教えには、「自力」「他力」という別なるものがあるのではなく、自他が一如となった「絶対的自力」そのものが、人の生きるほんとうの道であるということで、これはまったく同感であります。そのとおりだと思います。 ただ、ここに、「自力門」「他力門」という教えの道があるということ、認識の領野が現に二つあった、と。あえてあったと申しましょう。あったということは、それはそれだけの時代背景の影響下に置かれた人びとの知的、あるいは、経済的、環境格差というものが、公平に言って、大きな要因をなしていたというべきだと思います。従って、ある時代の武士、貴族階級には、「自力聖道門」の教えが受け入れられ、また、同時代にあっても、農漁民や工人、下層商人たちにとっては、「他力浄土門」の教えが素直に理解され、人びとの魂の救いとなったものと思われます。別の言葉で言いますならば、いずれの人に対しても、御仏(みほとけ)の対機説法がなされたということで、これも方便、それも方便ではなかったかと思います。 4.個性向上に努める「自力門」、没個性、脱価値の平等観に堕す「他力門」 道元 ただですね、そういう考えも、もちろん、確かにありますが、では、なぜね―、神仏は人間に個性をお与えになったのかということを考える必要があるんです。個性をお与えになったということは、相互に努力し、自分自身を伸ばしていくなかで、全体の宇宙の構成員すべてが向上する、そういう教えを考えたはずなんです。 つまり、なぜ個性があるか、これを考えていく必要があります。やはり個性があるということは、それぞれのなかにすべてを見出していく、それぞれの各人が、すべてをその自分自身のなかに見つめていく、その努力をする必要があるんじゃないか、と。 たとえば、この『道元禅師霊示集』という本が世に出されたとしても、これを読むのは、ひとりひとりの人間であります。そのひとりひとりの人間が、この『道元禅師霊示集』を読んで、どう感じるか。それをどう実際生活に応用していくか。どう心の世界に応用していくか。こういう問題だと思うんですね。 つまり、ひとりひとりの進歩が、実はすべての進歩につながっていく、こういう考えです。ですからまあ、自他がないということであってもね、自他がないということは、個性がないという意味ではありません。個性というものは、個性としてちゃんとして与えられているもんです。なぜこの地上に、個性ある存在として皆さんが許されているか。それはすなわち、それぞれの門は、それぞれの角度から探究していきなさい、と。こういう意味だと思うのです。ですから確かにね、"阿弥陀如来"に救われるという考えであるなら、もう無個性かもしれない。没個性でしょう。ある意味で、そうじゃないでしょうか。だれだから救う救わないということはないということでしょう。すべての人が救われるという考えです。 そういう意味では、平等ではありますが、平等という思想の背景には、没個性という裏の脱価値、価値剥脱(はくだつ)という概念があるわけです。平等ではあるが、脱個性であります。 ですから、私がいっている個性の追求のなかには、平等とは違った自由という価値がおそらくあるでしょう。昔からある自由と平等という問題が、実は、他力と自力の問題のなかに現われてきているんです。まあ、もちろん、自力の難点としては、ある意味では、そういう差別知を育(はぐく)むおそれがあるということですね。心のなかにはすべての世界があると言いながら、ある人は、七次元的悟りまでいける。こういう差は、厳然としてあるではないか。そうすると、それはひとつの差別知ではないか、と。こういう見方、問題があるわけです。 ところが、"阿弥陀如来"を信仰するような他力信仰には、すべてのものが平等であって、そういう差別知がない。ある人が努力したからといって、とくに救われるわけでもなければ、努力しなかったから救われないというわけでもない。こういう教えでありますし、平等知であります。 ただ、言わしていただくならば、そういう他力信仰は、いつの時代でも同じになってしまいます。そうじゃありませんか。百万年前だって、同じです。そんなことを言っておるのであるならば、人間が時代と環境を変えて、魂修行をしている意味がないではないですか。いつの時代だって、それで教われるなら、他力でね、つまり、"阿弥陀如来"と言っておればいいのであれば、これは時代による差はないではないですか、まったく――。ところが、時代と環境を変えて人間が生まれて来る理由は、それぞれの環境のなかで、独自の個性的な悟りを得ていきなさいという意味ではないですか。 そういう意味では、やはり人間が転生輪廻(てんしょうりんね)をしていく理由を考えてみると、私は、自力というのがどうしても主眼になると思うのです。自分で選びとった環境、選びとった時代のなかにおいて、やはり自分たちは、それなりの最高の悟りを得ていけということなのではないでしょうかね――。これについて、何か質問がありますか。 ―― そうですね、まあ、これは昔から言われているように、親鸞(しんらん)さんも、また唯円(ゆいえん)さんも申されておりますが、自力、これは大変けっこうである、と。「聖道門」はけっこうなことである。これは素晴らしい教えである。この教えが分かって生きていける人は恵まれた方であり、幸せな人である。しかしながら、この教えが分からず、その教えによって教われない人はどうなるか。その自力の教えが分からない者は、どうなるのか、と。 たとえば、戦国乱世という洪水の大河のなかで、浮きつ沈みつして救いを求めて流れている凡夫を見て、「お前は、学を身につけたら、自力で救われるんだ」と言って、泳ぎの達人は傍観しているかというと、そうではないのです。とりあえず、襟(えり)をつかんで岸へ引き上げねばならない。水を吐かすなり、何なりの処置は、その後で、十分なせばよい。とりあえずは、一命を取り留(と)めるのが先決ではないのか。このとりあえずの仏の救いを説くのが他力門であり、その上の研究、研讃(けんさん)を積み、高い悟りを得ようとするのが聖道門である、と。そう語っておられましたが――。 したがって、まあ時代背景というものもありまして、鎌倉期、戦国期におきましては庶民の知的水準も低く、そのために、そうした他力本願の教えが、当時の人びとの共感を多く呼んだものと思います。しかしながら、今日のごとき文明文化、教育の進んだ時代におきましては、それだけではもの足りないのではないかと思います。 道元 もちろん、私が言うのは、他力の教えで皆んなが救われているのであれば、それはそれでけっこうですよ、と。そして、大衆を救いたいというのが彼らの本願でありましょうから、「禅」でやった人は自分ひとりしか救えないけれども、他力は多くの大衆が救えたと言うかもしれない。ただ、ほんとうに彼らがね、数十万、数百万の人を救ったかどうかです。その後、どうなったかであります。その人たちが、その後どうなったかであります。 ほんとうに、彼らが救われていると思いますか。救われていると思いますか!"南無阿弥陀仏"と念仏をあげて、彼らの教えによればですよ、"南無阿弥陀仏"とあげなさい。いや、あげようと思っただけで救われているのだ、と。天国行きは決まっているのだ、と。弥陀はね、そういう念仏をいくら唱えたら、百万回唱えたから救ってくれるんじゃない。あげたからいいんじゃない。あげようと発心(ほっしん)しただけで、すでに極楽往生間違いなしなのだ、と。親鸞の思想は、そうであります。あなた、これを正しいと思いますか――。 ―― まあ、これも対機説法でありまして、相手によって、そう説くのだろうと思いますが……。 道元 しかし、実際ね、生きている人たち、庶民たちは、"南無阿弥陀仏"という気持ちを起こしました。その後、何もしなくてですね、皆んな、天国へ行っていると思いますか。あなた、どう思いますか。常識人としてですよ。理性的な人間として、どう思いますか。あなたがですよ、どんな悪いことをしてきてもですよ、「いや、俺は心を改めようと、"南無阿弥陀仏"という気持ちを持った」と、阿弥陀さんを真に信仰したという気持ちを起こしたら、もうそれで、あなたの天国行きは決まっている、と。ほんとうですか。ほんとうだと思いますか、あなた、これ。 ―― それはね、それで地獄に堕ちる人もあるかもしれないけれども、それで救われる人があるということです。 道元 それで救われるような人は、何もしなくても救われるんです。"南無阿弥陀仏"と思う気持ちを起こして救われるような人は、何もしなくて、あの世へ行っても、きっと、救われているんです。心清い人ですから、きっとね。 ―― まあしかし、末期(まつご)にあたりましてね、無知の人が、何をすればいいのか分からないような人でも、たったひとこと、"南無阿弥陀仏"と唱えれば、お浄土へ連れて行かれるんだということを信じている人は、それしか方法がないわけですわね。そして、"南無阿弥陀仏"と言って掌を合わして成仏する姿、これも、そこに方便が生かされておるのではないかという気もするのですがね――。 道元 ま、もちろんね、それでそのまま、やすらかに成仏していく人もあります。そして、それこそ、霞(かすみ)たなびく黄金の雲に乗ってですね、諸如来、諸菩薩が迎えに来て、その人をあの世に連れて行く、浄土に連れて行くということもなかったとは言いません。ただね、"南無阿弥陀仏"と死の間際(まぎわ)になって一生懸命に言っていて、そして、死にました、と。ストーンと真っ暗な地獄に堕ちて行ったときに、この人たちは、その後、何をしたらいいのですか。相変わらずぶ"南無阿弥陀仏"を言うんでしょうか。いや、それさえ言わなくていい、と。発心を起こせば、もう救って下さるのが決まっているというのに、じゃあ、どうしたらいいのでしょうか。 ―― それは、その人は、やはり発心(ほっしん)したということによって、ときはかかれども、やがては、弥陀の救いにあずかると言っておられますが――。 5.地獄界に新たにできた"念仏地獄" 道元 しかしながら、私がですね、その他力信仰の信者たちのその後というものをあの世で見ていると、どうかと言うと、地獄界には、ひとつの新しい地獄界ができたのです。それを"念仏地獄"と言います。こういう他力門が出る前は、こういう地獄はなかったのです。 ところが、地獄のなかの一部分にそういう念仏地獄というのができました。まあ、それはもちろん、親鸞とか、蓮如の考えがすべて間違っているわけじゃありませんから、それを正しく理解して天上界へ行った方もいらっしゃるでしょうが、やはりね、ああいう教えは、つまり、大衆救済という教えは、一歩間違うと大衆に迎合(げいごう)してしまうんです。 なぜ、あんなにあの教えが流行(はや)ったか。ある意味で、迎合しているという側面があることは見逃せないのです。要するに、どんなことをしてでもね、何でも"南無阿弥陀仏"の気持ちを起こせば、救って下さるんです。これはありがたいですよ。彼らはそうは言わないかもしれないけど。これは私から言えば、ひとつの「免罪符」です。ね、ぶら下げるの簡単です。チャリンとお金を投げてですね、南無阿弥陀仏をあずければ、胸に掛けたら、あなた、救われるんです。そうは思いませんか。 もちろん、多くの素朴な人たちに信仰心を植えつけたという意味では、功績(こうせき)があると私は思う。ただ、ほんとうにその救いを得たかというと、必ずしもそうじゃない。そして、それ以降ですね、つまり、ああいう念仏宗が出て以後、地獄に堕ちてですね、堕ちて、そして、念仏行者ばかりが集まってですね、念仏地獄をつくっている。あの世でですね、「ナミアムダブ、ナミアムダブ」ばっかり言っているんです。そういう人ばっかりが集まっとるんです。確かに救ってくれるはずだ、と。ね、ナミアムダブ、ずっと唱えているんです。救われないです――。 なぜ救われないか。救いたいと思っているのですよ。もちろんあの世の霊たち、高級霊たちは、救いたいと思っているんですよ。ただ、彼らは、なぜ自分が地獄に堕ちたかわかっていないから、救えないんです。 あなた方にわかる言葉で言えば、いわゆる想念(そうねん)が黒いわけですね。あるいは、比重が重いから地獄の底に沈んでいるんです。想念が黒いんです。この想念の黒さに気がついてくれなければ、救えないんです。真っ黒けのままでは、あなた、ダイヤモンドのような世界へ引き上げて来るわけにはいかないんです。 そしてまた、その真っ黒けというのは、あの世の法則では、自分で払わなければいけないことになっているんです。そうしないと、どんな真っ黒けで堕ちても、あの世からですね、百万燭光の光でピカッと照らせばすべてなくなるんだったら、塵も垢もなくなるんだったら、こんな簡単なことはありません。それを慈悲や愛だと そうじゃありませんか。自分がつくった心のひずみをどうして人が拭(ぬぐ)ってくれるのですか。自分がつくった曇(くも)りは自分で拭(ぬぐ)わなければ仕方ないじゃありませんか。まあそれがね、別にね、自力論者の考えじゃなくて、神様が考えておられる考えなんです。そうじゃないとね、もちろん南無阿弥陀仏唱えなくても、ほんとうにたとえばですよ、あなた方のなかで考え違いをする人かおるかもしれない。 どんな罪を犯したってね、神や仏は慈悲や、愛のかたまりだから、絶対救って下さるのだと、今言ったように言うのだったら、何したって救って下さるのに決まっているじゃないか、と。もし地獄に堕ちたとしても、「頼みますよ」と言えばですね、一瞬のうちに罪や穢(けがれ)は赦(ゆる)してくれるに違いない、と。そして、天国へ行けるよ、と。 こういう心得違いをしているものがおるのです。――地獄へ行きます。いくら人を呼んでもね、救われません。あの世の霊たちは、救おうとしています。でも、救われません。真っ黒けだからです。墨みたいに真っ黒になっているんです。上げようがないです。同じ世界でないと住めないのです。これはあくまでもね、その人が一生に犯してきた罪業というものは、自分自身で反省していただかないと、どうにもならないのです。 私たちは、たびたび地獄へ行って見て来ております。地獄へ行ってね、私も、地獄へ堕ちた他力門の人たちを救うために、自力門の私たちが、ずいぶん地獄へ行って、救いに行きました。念仏地獄へ行きました。そして私は、たとえば、ひとりひとりを呼んでね、「あなた方、自分自身の心の曇りを晴らさないで、だれが一体晴らしてくれるんですか、と。あなた方ひとりひとりがね、自分が過去行なった行為、念いのひとつひとつの悪いところを取り出して反省しなさい。禅定(ぜんじょう)してね、ひとつひとつの悪いところを反省して想い出していきなさい。そして、心清くなれば、救って下さるんですよ」とね、私は教えに行っています。そう説法しています。ただ、彼らは頑(がん)として受けつけないんです。 つまり、「そんなの間違っている」とね。そして、こう言い返す。「ただね、阿弥陀様にお願いすれば救って下さると、私たちは教わった。あなたは悪魔に違いない。光っているように見えるけど、きっと悪魔だ。そういう間違った教えを教えてね、私たちを地獄のもっと奥深いところへ引っ張って行こうとしているに違いない。自分で悟れるなんて。そんなのは、絶対間違いです。人間はそんな存在じゃない、そんなんじゃありません。自分で救われるような、そんな善人はおりません」と。そういうふうに、言い返すんですね。 しかし、私は、「そうじゃありません。反省しなさい」と。しかし、彼らは反省のモノサシというものを持っていないから、反省のしようがないですね。すべて帳消しにしてくれると思っていましたから。だから、そういう信仰というものをいったん持ってしまうと、信仰心というのは、なかなか強固なものなんですね。だから、私たち自力論者がいくら行って説明しても、わかってくれないのですね。それを解かってくれるまでには、五十年、百年かかるのです。この手間のかかり方は、大変です。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/400.html
目次 1.「他力門」の認識不足について 2.宇宙即 我 を生きる「聖道門」 3.「自力」とは、 絶対的自分 に生きること 4.個性向上に努める「自力門」、没個性、脱価値の平等観に堕す「他力門」 5.地獄界に新たにできた 念仏地獄 6.他力の教えは、死の苦痛を和らげる一時的な麻酔薬 7.自力の誤りと「自他力、混一」の悟りへ 8.光一元、善一元の「絶対力論」は、そのまま現世では通用しない 9.道元禅の「時間論」について 10.「悟り」とは何か。大きく分けて二段階 11.だれでも、一躍跳入、如来地には入れない。段階を最高度に発揮し、生きよ 12.未経験の他次元世界の悟りは説けるか 13. 道元禅 の起こりとその基礎 14. 道元禅 の限界について 15.私は今、菩薩界で「愛」について勉強している 16.坐禅だけでは悟れない。学んだ知識を生かし、利他行に励め 9.道元禅の「時間論」について ―― では、道元さん。あなたの「道元禅」というのは、現代知識人に大変受け入れられて、勉強の材料になっているわけですが、あなたの道元禅のなかで、とくに「時間論」というのが非常に有名なようなので、あなたの時間に関するものの考え方、そういうことについて、お話いただければと思うのですが、如何でしょうか。 道元 まあ人間というのは、先程来(らい)、何回も言っておりますが、永遠の転生輪廻を繰り返しているものであります。そして、転生輪廻のなかにおいて、一番大切なのはやはり、"時間"ということですね。先程、私は、他力の思想というのは、その時間が関係ないではないか――、ということを言いました。百万年前でもね、現在でも、「南無阿弥陀仏」で救われるのなら一緒でないか、人間の悟りにね、何の進歩もないではないか。――ということを言いました。 私たちはこの時代を選んで、この環境を選んで生まれ来たということはね、今という時間において、何らかの修行の意味があるから生まれて来たに違いないと、そういうことを私は言いました。 人生を魂の修行の場として、正しく観るならば、そのなかにおいて一番大切な考え方は、「時間」ということです。時間というものを無視した修行というものはあり得ないということです。ですから、"即身成仏"とかね、その時点で修行が終わってしまうような、そういう修行はあり得ないということですし、「南無阿弥陀仏」を唱えたら、そのとたんに救われて、あの世に成仏間違いなし――と、こういう教えも、私の考えからいえばおかしいということです。やはり人間というのは、どんどん変転していく環境のなかで、そういう時間を生きている存在であるということです。 ですから、修行に際しては、その時間という考え方、これは非常に大事です。で、その時間とは、一体何でありますか。人間は、過去に還って修行することはできないのです。また、未来に飛んで修行することもできないんです。人間が修行できるのは、現在、ただ今であります。 現在ただ今しかないんです。それを、たとえばですよ、何十年か先に死ねば、極楽浄土へ行けるというような、こんな不確かな約束をするような教え、これは間違っております。やはり、現在ただ今の自分を、少しでも高めていく、そういう修行というのが、私はほんとうの修行だと思うのです。 あなた方が、十年後、二十年後にどんな悟りを開いているか分かりません。それは、ある日突然に、光が射して、あなた方が、百八十度の転回をして、にわかに悟ることがあるかもしれません。しかし、そういうことは不確かなことであります。先のことであります。あるのは、現在ただ今であります。 あなたにとっては、道元と話す機会は何度かあるかもしれませんが、今、あなたの魂修行という点をとってみれば、道元と今話しているあなたは、この今を逃しては話しをするタイミングはないということです。現在のあなたの心境は、もう二度とないであろうし、現在の道元の心境もまた、二度とないのです。一期一会(いちごいちえ)という言葉もありますけれど、現在ただ今というのは、もう二度とこない時間なのです。こういう時間を、あなた方は生きているんです。 ですから、地上の皆さんも、その一期一会ですね、毎日毎日の積み重ね、毎日毎日に起きることは、もう二度と起きないんです。同じ人と二度、三度会うことがあっても、その人と同じ会話をもう一度することもなければ、同じ場所で、もう一回、同じ心境で話しをすることもないということです。人生の要点は何か、奥義は一体何であるかというと、結局、その一日一日、永遠の今を生きていくということであります。このことに関して、何かご質問があればお話しいたします。 ―― ただ、道元さん、おうかがいいたしますが、あなたは今、過去はない、と。未来は、まだきていない、まあ、現在だけしか時間というのはないんだというふうな考えについて言われました。しかし、仏教の教典のなかでは、その現在すらないというようなことを言っている経文もあるし、また、現在というのも、たとえば、砂がね、指の間をこぼれ落ちるようなもので、現在というものをつかまえようとすれば、サラサラと下へ流れて行っている、と。――過去なし、未未なし、現在なしと、まあ、こういうようなことを説いているところもあるようですが、これについて、あなたはどう思われますか。 道元 まあ、そういうふうな考え方をすれば、現在というのは、一瞬一瞬がすぐ過去になっていくもんですから、ま、現在もない、と。過去というものは、もう過ぎ去ってしまった。未来というのは、まだこない。では、現在だけがあるかと思えば、その現在をつかまえてみようとすれば、その現在というのは、今言ったようにね、砂が指の間をかいくぐっていくようにこぼれ落ちていく。従って、現在さえない。と。まあ、こういうことを言う人も、もちろんおります。 ただ、これはあくまでも理屈であります。指の間を、現在、つかまえようとしたら、現在というのは、指の間をすり抜けていく、だから、現在もない。だから、過去、現在、未来も全部ない。では、何があるのか、何もない。そうすると、どうするのですか――。やはりこれはね、何かが間違っているわけです。この考え方というのは――。 まあ、よく言うでしょう。線というのは、点が連続していると言いますね。点が連続して線ができる、と。で、線というのが連続していって面ができる。そういうことを、よく言いますね。面には面積があります。線には長さがあります。それじゃあ、点はどうか。理屈の上では、点というのは、位置だけがあって、面積も、長さも、何もないものである。ということになっていますね。 しかし、それは、ひとつの比喩(ひゆ)なんです。点というのは、位置だけあって、面積も、長さも、何もないというけれども、では、面積も、長さも、何もないものが、これが連続していって、じゃ、線分になるかというと、なるわけないのです。線分には長さがあります。長さがないものが連続して、長さがあるものができる。こういうことはないんです。 だから、これは考え方の綾(あや)であって、そういうことで、現在なし、と言い切ったところで、それは、人間の心性にとって、一向に何らの進歩にもならない。ということを、私は思うんです。ですから、過去なし、来来なし、まあそれはいいですが、現在なしと言い切ったところで、それによって、何ら人間が進歩するわけじゃありません。 ね、現在というのはないんだ、と。で、その後、どうなるんですか――。鎌倉の大仏さんか、奈良の大仏さんみたいに、じゃあ、坐っとればいいんですか、と。あれは過去、現在、未来はないでしょう。ああいう大仏みたいな人は、ないでしょうが、そういう考えというのは、生ま身の人間が修行していく途中においては、あまり意味のない考えだと私は思います。 ―― また質問ばかりで申し訳ありませんが、日蓮さんという方から教わったことなんですが、まあ、反省のモノサシですね、これについて教わったのですが、反省というのは、現在の立場に立って過去を振り返るということが反省だということですが、日蓮さんから最初教わった訓(おし)えによれば、たとえば、二千年後の立場に立って現在を反省せよ、ということを訓えられたのですが。 たとえば、私たちがこれから説こうとしている「神理」というものは、千年、二千年後まで残るものである。それならば、現時点でいろいろ反省するのではなくて、二千年後、これがどういうふうに伝わるのかということまで考えて、その二千年後の立場に立って現在を反省せよ、ということを私は日蓮さんから教わりました。 また、イエス・キリストという方からは、こんなことを言われたこともあります。まあ、現在反省するということもいいけれども、あなた方の反省というものは、生まれて来てから現在までのことを反省すれば、それで十分なのではない。あなた方は、皆んな、使命を持って生まれて来ているのだから、生まれる前の計画というのがある。皆んな。ですから、生まれる前につくってきた計画というものに対比して、現在の自分はどうか、こういうことを考える必要があります、と。 つまり、たとえば、「神理」を伝道しようとしているものが、単に善人での一生を送っただけではいけない。現在の立場に立って、過去を、生まれてからのことを反省すれば、まあ、善人の生涯を送ればそれでいいではないか――、という気持ちもあるのですが、生まれて来る前の立場から反省をすれば、それではいけない。もっと大きなことをやらねばいけないということもあるはずだ、と。そういうことで、反省の立脚点というのを、単に現在にではなくて、未来に、あるいは、過去に持ってくると、こういうようなことも、高級霊から指導を受けたことがあるんですが、それについてのあなたの見解を聴きたいと思います。 道元 そういうのは、まあ、特殊な事例でありまして、確かにあなた方の法が、遣(のこ)されようとする法が、五百年、千年、二千年遣るのであれば、もちろん、後世への影響というものを考えて、二千年後の立場に立った現時点の法ですね、これを考えるということは大事です。 たとえば、あなたと道元とが話していることが、これが二千年後に遣るとするならば、あなたは、現時点のあなたの気持ちで私と対話するだけではなくて、二千年後の人たちの気持ちになって、今私と話をせよ、というようなものの考え方もできるでしょう。あるいは、あなたの生まれて来る前の立場に立つなら、地上に生まれて来る前に、あなたが、今回地上でどういう神理を伝道しようかとの計画があったはずですが、その計画に照らして、現在のあなた、あなたが、たとえば、「道元」と話しているということがね、どういう位置づけがあるかと、こういうふうな反省の仕方というのはもちろんあるはずです。 ただ、この反省の問題点は、こういう特殊なですね、高級霊たちと話しができるような人たちの場合は、その二千年後の立場、あるいは、その生まれて来る前の立場ということも考え得るのですが、一般の人たちは、自分がどこから来て、どこへ行くのか、これさえも知りません。ましてや、自分の生き方が、二千年後の立場に立って、あるいは、もっと短くてもいいですが、百年後の視点から見て、現在の自分の生き方がどうかと、反省すること、これはむずかしいことです。百年後の立場に立って、今の自分を見たら、さあどうなるかと言われても、これ、ちょっと分かりかねます。 百年後、どうなっているか、分からない。そういうことでね、百年後、たとえば、二千年後の立場に立っても、素晴らしいあなた方であるということは、これは非常にいいことですけどね、ただ、二千年後ということは流動的です。どうなるか、分かりません。だから、百年後も分かりません。百年後の立場で、あなた方の教えが、今高いか低いか、全力をつくしたかどうか、これは分かりません。 そういうことは分かりません。ですから、一般の人にとっては、現在ただ今のなかにおいて、やはり最高のものを積み重ねていくということが、百年後の立場に立っても、二千年後の立場に立っても、素晴らしいあなた方であろうし、あるいは、生まれて来る前の立場に立っても、現在、ベストをつくしているなら、それは素晴らしいあなた方であろうと思います。 ですから、私は一般の人に対しては、やはり、現在ただ今にれいて最高をつくす、ベストをつくすということでいいのであって、やはりあるべき時間は現在のみということで考えていっていいのじゃないか、と。――そう思います。 ただ、反省の視点ということで、先程、言われたように、ときおり、いろんな視点から考えてみるということも大事です。生まれて来てから、このかただけが大事じゃないんだ、ということもあるでしょう。ただ、一般の人にとっては、現在ただ今しかありません。これを、最高に生きるということです。キリスト数的に言えば、一日一生ですか、一日の枠(わく)を一生だと思って、明日のことは思いわずらわず、昨日のことはすんでしまったと、今日を一生懸命生きる、と。今日を神の日として、神の国を生きるということがね、やはり最高の悟りじゃないかと思うのです。 ―― いや、わかりました。どうもありがとうございました。 10.「悟り」とは何か。大きく分けて二段階 (1)三次元世界の悟り ―― では、次に、悟りとは何か、ということについて、おうかがいしたいと思います。まあ、"悟り"とひとくちに申しましても、悟りとは一体何であろうか、どういうことをもって"悟り"、あるいは"悟りを得た"と申すのであろうかということを、人びとにわかるようなお話でお願いできましょうか。 道元 まあ、これはね、宗教家にとっては、はっきり言って、面接試験そのものであります。たとえば、あなたがどういう人物で、どういう人生を送って来てですね、そうして、その成果がどうであったかということを知ろうとすれば、あなたがあの世に還って来たら、私たちは出迎えてですね、「ここに坐りなさい。前に坐りなさい。まあ、座蒲団(ざぶとん)ぐらいはあげましょう。そこへ、坐りなさい。さあ、お前の得た悟りとは何か、しゃべりなさい」と。そして、あなたがしゃべり終えたら、あなたがどこへ行くかについては、私たち、もう採点ずみです。 ですから、この"悟りとは何か"というのは、まあ、厳しい質問でありまして、まあ、面接試験そのものです。これは、高級霊全員にぶつけても、それぞれ答えが違うでしょう。そして、なぜかそれに点数がつくでありましょう。ですから、宗教家としては、これはある意味においては、非常に比較される問題であるし、道元の程度が知れてしまうということでもあるんです。しかし、逆に言うならば、私たちが日々求めているものは、この悟りそのものです。ですからこれは、宗教家としては、あるいは、道を求める人としては、避けて通れない関門だということです。 まあ、悟りもね、二段階に分けるという方向もあります。たとえば、三次元における悟り、あるいは、他界後の悟り、こういうふうに分ける考えもあります。そして、まあ、分りやすく言えばですよ、こうした二段階の悟りに分けるならば、三次元の悟りとは何か。これは、普通ですね、ま、この世の人間として、最高に自分を発揮するということで、おそらくありましょう。 神仏が期待するような方向に、如何にして自分自身を最高度に発揮するか、ということを常々考えている。それに対する回答を得たとき、正しくこう生きるのが、神仏の心に、期待にあった最高の自分だということを知ったとき、これが三次元的な悟りだと私は思います。 人には、もちろん、人それぞれの人生航路、環境、いろんなものが与えられています。それぞれの人の悟りは違います。たとえば、不遇な環境に育った人がおります。あなた方の時代であれば、有名な方で言うと、たとえば、松下幸之助というような人がおります。この方も、私が見ていますと、大変貧しい環境に生まれて、幼くして父母に死に別れ、そして、丁稚(でっち)奉公してですね、大変苦労されたようです。で、苦労している時点では、この人、悟っていないんです。しかし、苦労を通して、いろんな事業を興す。ま、失敗もしたりする。そうしたなかで、だんだん、人に雇われる身じゃない、どうやら自分でやっていかねばいかん、と道を究(きわ)めていく。 そして、あるとき、電気器具の便利さというものに気がつく。ああ、これからの時代は、こういう電気器具があふれる時代なんだな、今までは精神だけを言っていたけれども、これからは、世の中を便利にしていかなければいけない時代なんだな、と。自分というのは、あの水道のようにあらねばならない。水道というのは、だれが水を飲んだって、盗んだと言われない。それほど、ありあふれているもんだ、と。水道の水というのは、無限に供給されるから、だれでも飲めるようなもんだ、と。そういうあふれたもんだ、と。こういうふうに、世の中を便利にするために、これからの新時代のための電化製品というのを、この世に供給しよう。無限に供給しよう。できるだけ安く、無限に供給しよう。そして、彼は、彼なりの自分の人生の悟りを開いたわけです。 松下幸之助は、事業家として、要するに、世の人たちにできるだけ安く、できるだけいい品を、できるだけ多くの人びとに分け与えるという悟りをまず開いたわけです。第一段階に。そして、事業家として生きていました。そうしているうちに、彼はそれだけではもの足りなくなってきました。やはり、これだけではいけない、と。ものを豊かにするだけでは、人はほんとうに豊かにはならない、と。 敗戦後の人たちの心を明るく、正しく照らしていくために、電気製品だけではなくて、心を照らしていくことも大事だということを考えて、新たな精神的な啓蒙運動というのを興していきました。これがPHPというような運動でありましょう。 彼の教え自体は、まだ宗教にはなっていませんが、宗教的な要素を多分に含んだ教えを説いてきているはずです。 これが、彼の第二段階の悟りであったでありましょう。こういうことで、彼にとっては、三次元的には、たとえば、自分が事業家として、事業家としてどういう使命を持っているのかをまず知った。そして、二番目に、自分の運命が、どうやらもっと大きな立場で、いろんな人びとに心の糧(かて)を与えることだなと、こういうことを悟りました。これが二段階目の悟りですね。この二つの悟りを、彼はやりました。これが三次元的悟りです。 (2)あの世、多次元世界での悟り 道元 三次元では、まあこれで十分でありましょう。おそらくはね。ところが、あの世、多次元世界に来たら、それですむかといえばすまないです。まだ、あの世の仕組みのことは、十分知っていません。あの世、たとえば、高級霊たち、天使たちの働きということは、十分知っていません。まあ、神仏の力でね、自分たちが生かされている。運命というものがあるというようなことは、彼は知っていますが、あの世へ来れば、あの世での悟りがあります。それは、あの世では心の段階があって、そういう心の修行をしていかねばなりません。こういうことがあります。 これは、まだ十分わかっていない。これはまた、あの世の悟りになります。ですから、私は、分かりやすく言えば、悟りというのは二段階に分けて、まあ、三次元的悟りと、あの世的な悟りとがある、と。だから、あの世的な悟りというのは、まあ、こちらへ来てね、いろんな高級霊の指導を受けて、神仏のほんとうの意(こころ)はどこにあるのかということを知って、それを目指して、日々修行するということですね。これに気づくということです。 まあ、あの世の悟りにも段階があります。たとえば、地獄界には地獄界の悟りがある。要するに、――ああこれで、私は地獄におったんだな――ということに気がついて、反省して、天国へ上がって行く。これもひとつの悟りでありましょう。また、幽界におる人がね、ああ、自分たちは肉体がないんだ、と。どうも人間はね、霊であって永遠な生命なんだということに気がついて、要するに、精神的な自分というのに気がついた場合に、つまり、精神的な悟りですね、人間とは精神的なものであると、肉体に執われてはいけないと、こういうことを知ったときに、四次元幽界から五次元霊界に上がっていきます。幽界の世界というのは、まだ肉体的意識がありますからね、だから、こういう四次元的悟りというのがあります。 また、五次元の人間というのは、霊性に目覚めてね、精神的ではあるんだけれど、まだ神仏というものがはっきりと解(わか)っていない。五次元の人はね。まあ善人ですね、信仰心のある善人が五次元にはおります。ただ、まだね、それに留まっているんですね。信仰心のある善人ということで留まっている。 ところが、こういう人たちがね、もっと心の修行して、どうやら私たちは、自分というのは、単に自分がいい人であるだけでなくて、もっといろんな世の中の人びとの役に立ってみたいな、できたら何か自分の専門を生かして、多くの人たちを教えるようなことをやってみたいな、と。それにはやはり神の道か、仏の道をもっと徹底的に勉強してみたいな――と思います。五次元の人は、こういう念(おも)い、発心(ほっしん)をしますと、やがて六次元に入っていきます。 これが神界ですね。だから、ここに入るときに、五次元的悟りがあるわけです。で、神界ではまた、それぞれの専門を究めます。詩人は詩人としての、芸術家は芸術家としての、あるいは、宗教家も自分の専攻領域としての勉強をどんどん重ねていきます。で、勉強としては、ゆき着くところまでいくんですね。専門家として。たとえば、キリスト教系の人だったら、キリスト教系の教学としてはゆき着くところまではいって、専門家としては、第一人者になります。 そして、霊界や幽界の人を指導するだけじゃなくて、地上界の人も指導できる。そういう経験をします。専門家としては、まあ十分になるんですが、でも、これだけではいけないな、と。゛もっと自分は神近い、神仏に近い存在になりたい、と。全身愛と慈悲の塊(かたまり)になって、人びとを救う。指導するんじゃなくて、教えるんじゃなくて、今度は、救う、そういう道に入っていきたい。そういうふうに、神界の人というのは、まだ自分というのが十分あるんですね。 自分を鍛えて高めるという気持ちが、まだずいぶんあるんですが、自分、己れというものを今度は捨てて、要するに、つくそうと、人のために身も心も投げ出そうという気持ちになってきたときに、こういう神界の人は、菩薩界に上がって来ます。これは神界としては、おそらく最高の悟りでありましょう。 まあ、菩薩から如来界への悟りもあるんでしょうが、まあ、これについては私にはまだ分(ぶん)かすぎているようですので、今は語りません。 こういうふうに、あの世の悟りというのを見てみると、どうやら、結局、自分の置かれている立場を知って、最高度に自分を発揮する、と。それぞれの段階において、最高度に自分を発揮するということで、どうやらあるようですね。結局、四次元界におるときに、七次元の悟りを求めても無理なのです。結局のところ、四次元幽界におる人は、四次元幽界人として最高の自分を発揮して、そして五次元的悟りを得る。五次元へ入っていくということは、すべてなんですね。 11.だれでも、一躍跳入、如来地には入れない。段階を最高度に発揮し、生きよ 道元 そこで、五次元人間は、五次元人間として最高に生きて、ベストをつくしてはじめて、六次元神界へ入って行く。やはりね、段階というものがあるのです。ですから、あの世の悟りにおいても、現在において、最高度に生きる。これが大事なんですね。一直線に飛躍して、絶対力やら、他力やら知りませんが、一挙にね、あなた、幽界、地獄とかね、幽界から一挙に、あなた、如来や菩薩にはなれないんです。 教えのなかには、そういう教えがあってもいいけれども、実際はそうではありません。自分の置かれた環境、立場において、最高度に自分を発揮する。やはり悟りはね、そうしたものでしかありません。一挙にね、一躍跳入というのは嘘です。それはありません。それは、そこにおる人がそう言っているだけであって、実際、そこにいない世界の人たちは、"一躍跳入如来地"ということはありません。絶対にありません。 如来が、如来界へ還って来るのは、一躍跳入でしょう。しかし、普通の人は、それはあり得ません。そういうことはできないです。そういう意味では間違っています。それでは、ほんとうの最高度の努力はできません。努力というのは、やはり置かれた時間と環境のなかで、最高度に自分を発揮していくということでしかないんです。 まあ、今簡単に言いましたが、「悟り」をね、わかりやすく言えば、三次元的悟りと、あの世での悟りがあるでしょう。そして、この三次元と、あの世を貫(つらぬ)いた悟りを体得するためにやっているのが、ほんとうは宗教家の役目だということです。あなた方は、それを貫かなければいけない。この世の悟り即(そく)、あの世の悟りであるような、そういうあなた方でなければいけない。 これがプロの宗教家ですね。あなた方は、その手本ですね。この世におりながら、あの世の悟りも教えなければいけない。――この世の悟りも教えなければいけない。両方です。これを貫くのが、一本で貫くのが、真の意味での宗教家です。ですから、あの世の悟りを知りながら、この世を生きていくと、この世の悟りを生きていく、そういう努力ですね。これが大事です。 12.未経験の他次元世界の悟りは説けるか ―― 悟りの本義につきましては、お教えのとおりだと思います。ところで、私たちは、三次元界にあって、このような仕事をしております。そして、この三次元界にあって、四次元以降の高次元界の構造、悟りの境地まで説こうとしています。しかし、人間は本来、自分の悟り以上の悟りというものを説いてはならない、また、説き得るものではないとよく言われていますが、このことに関して、先程の、この世で一貫した悟りの教えを説くということは、如何なものでしょうか。これは、我らのあの世の次元段階の眺望として語ることを許されるのでしょうか。 道元 たとえばね、まあ、謙虚な言葉としては、自分の悟り以上のことは説けない、と。そのとおりです。しかしね、あなたは、アフリカという国に行ったことはない、と。アフリカに住んだことがなければ、アフリカのことは言えない、と。あるいは、アメリカでも、イギリスでも同じことですが、こういう考え方、これはプロの言い方ですね。アフリカに移住して、アフリカを旅行したことがなけりゃ、アフリカを語る資格はないと、プロとしては言えるでしょう。 ただ、実際どうですか、あなた、アフリカに行ったことがなくても、アフリカのことを言うこと、できるでしょう。そうでしょう。そういうことなんですよ。で、アフリカに行かなくても、アフリカの知識を得ようとすれば、得られますでしょう。そうでしょう。そういう実感はないかもしれないけれども、語ることはできるということです。そしてね、アフリカヘ行っていないあなたが言ってるアフリカ論がね、間違っているかと言えば、間違っていないんです。 たとえば、あなただって、ヒマラヤの話をすることができます。ところが、登山家から言わせれば、ヒマラヤに登ったことがない人間は、ヒマラヤのあの山は分からないと、おそらく言うでしょう。それは、その感激がわからないということですね。悟りには、段階も、もちろんあります。ですから、自分が悟っていないことは言えないというのは、自分が悟ってなければ、その悟りを得るについての感激を伝えることはできないということです。つまり、感激は伝えられません。悟りのね、ただ、悟りの内容は、知識として伝えることができるのです。そういうことです。 ですから、その体験ね、ヒマラヤ登頂した人でなければ、もちろん、ヒマラヤ登山の醍醐味(だいごみ)は、分からないでしょう。感激なり、醍醐味は分からない。体得した悟りということの幸せは分からないかもしれない。ただ、悟りということを知識として伝えることはできます。ヒマラヤの山はこういう形で、雪がいっぱい降っている、と。雪の深さはこのくらいである。気温はこのくらいである。山道は、こちら側から行くのは危険です。こちら側から行くのがいいです、と。こういうことは、いくらでも言うことができるんです。知ればね。だから、あなたが登山家から聴いて、ヒマラヤの話を他の人にすることはできるんです。登山家というのは、ちょうどあの世におる私たちであります。だから、限定はしてしまう必要はありません。 ただ、その感激はわからない。たとえあなたが生きていたときに、生きているあなたとして、大菩薩(ボサター)としての悟りを持っていたとしても、その悟り自体は、こちらにおる大菩薩の悟りとは何か違うところがあります。それは、そうした感激、そうした感触、そうした醍醐味、それがないからです。まだね、分からない。つまり、間接的に感じているにすぎないからです。 でも、実際にアフリカに行ったこともない人が、アフリカに住んでいた人よりもアフリカのことをよく知っている、こんなことはいくらでもあることです。もちろん、あるんです。それは、その人の勉強、興味、関心の幅です。あり得るんです。ね、アフリカの西海岸に住んだだけの人が、アフリカのことを語るのと、あなたが語るとではどうですか。アフリカの東も東海岸も、中西部も、西海岸全域も、すべて、あなたが勉強すればいいんです。あなたのほうが、だれよりもよく知っている、と。そういうことはあるんです。だから、悟り以上のことは説けないというのはもちろん一面の真理ではありますが、それを放棄しろという意味ではありません。 13."道元禅"の起こりとその基礎 ―― 現在、禅師は天上界におられまして、長年のご研究の成果により栄光に浴されていると存じます。さて、現代の人びとは、禅師の書き遺(のこ)されている書物によって、その教えの真髄に触れようとしております。そこで、今このような機会を得ましたことを幸いに、禅師におかれて、かつての教えに加えて、さらに何かを語り伝えておきたいというお考えがございましたら、よろしくお願いいたしたいと思います。 道元 わかりました。まあ、今までね、主として私のいいところを話してきたわけですが、人間は、自分のいいところだけを話すのがすべてではありません。やはり自分というものを知ってもらうためには、私の長所も短所も、美点も、欠点も、知っていただくということがいいと思うのです。 とくに現代人たちは、「禅」というものに大変興味を持って、「禅」ブームというのがありますね。で、禅がすべてであるような気持ちにもなっていて、まあ、知識人にも受けているし、今、欧米でも、禅というのは流行(はや)っています。で、禅というのは、日本的な宗教でもあるかのように言われています。そこで、私としては、いささか面映(おもは)ゆい気持ちもするんですが、やはり、"禅"の限界についても、私は言っておかねばいけないと思います。 まあ、自分の口から言うのは残念ではありますが、私はそれを言っておかねばなりません。やはり、道元の限界が、「道元禅」の限界であるからです。道元としての私の限界でありましょう。そこで、ま、いささか恥ずかしい反省も込めてお話をしますと、鎌倉時代の道元として生きていたときの悟りというのは、どの程度の悟りであったかというと、残念ながら面目(めんもく)ないことに、六次元神界の悟りしか得ていませんでした。 生きていくときには、やはり私は、禅による悟りはどうしても哲学的に、どうしても抽象的に感じていました。私が人間として生きていたときに感じていた悟りというのは、結局、人間というのは、"今"というのを全力で闘ってつかみとっていかねばいかんのだというような考え方が"今"であったし、修行するのは他人じゃないのだ、と。他人じゃなくて、自分かやらなくてどうするか、と。修行というのは、自分がやらねばいかんのだ、と。こういうことは、すでにつかみとっていました。 また、悟りというものを、これはまあ、不立文字(ふりゅうもんじ)ですけどもね、悟りについて不立文字だけでは、説明ができるもんではありませんが、やはり何らかの感覚、こうしたものとしてとらえておりました。それをあえて言葉で表わすとすれば、「永遠なる今」というようなものを感じる瞬間、これが悟りのときだという感じを、私は持っておりました。それぞれの考え自体は、私は間違っていないし、それなりの優れたものだと、今でも思っています。しかし、それをいいものだと思っていたところに、道元の限界がまたありました。 私は若い頃に、中国に留学をしていました。五年ぐらい留学しておりました。そのときに、"天童山"というところでずいぶん修行をさせていただいたのですが、中国の優れた僧侶たちとたくさん出会いました。そして、彼らが、真剣に、ほんとうに自分の修行に打ち込んでいる姿に感動しました。で、やはり修行というのはこういうものなんだなと、真に打ち込んでいる姿というのは、美しくもあるなということで、真剣に打ち込んでいる先輩僧たちの後姿を見て、はっと思うことが多かったんです。 また、"天童山(てんどうさん)"におったときに、食事係をしていた六十すぎのね、老僧侶がおりました。その人が、暑いのに汗をしたたらせながら、暑い夏の日盛りに、あれは椎茸(しいたけ)でしたかね、椎茸のようなものを庭に乾していたんですね。真夏の暑いときに、私が行って間もない頃ですけど、その老僧侶が椎茸を乾していたんですよ。 そこで、そのとき、私は聞いたんですよ。「お坊さん、あなた、ずいぶんお年寄りではないか。見れば、六十歳にもなって、この暑い盛りにそんな椎茸干しなど、何でやるんだ。滝のような汗を流しているじゃないか、小父(おじ)さん。そんなことをあなた、若い者にまかせるか、もう少し涼しくなってからやればいいじゃないか。年寄りの冷や水だよ――」とね。山に行ったばかりの私は、そう言ったのですよ。まだ青年僧でね。まあ、鼻柱が強くって、私はどちらかと言えば、今様に言えば、ニヒルで、人の欠点とかにずいぶん気を回したものなんです。 それでまあ、悪いところと言えば、そういう冷笑するようなところが、冷たく笑うようなところが、私にはありました。だから、いい爺(じい)さんがね、もう六十すぎにもなって、何をやっているんだ、と。こんなことやっていないで、その年になれば、もっと悟っているはずだからね、もっといいことしなさい、と。若い者を教育するとか、お経を誦(よ)むとか、もっと高尚な仕事があるでしょう、と。 爺さんに教えてやるつもりでいたんですね。爺さん、あなたはわかっていないぞ、と。そんなの若いもんがする仕事だぞ。年寄りの冷や水などやめて、あんたは、もっと高度な修行しなさい。年相応な仕事があるでしょう、と。私は教えたつもりで言ったんですね。冷やかして。 そうしたら、その老僧侶が言ったことにはね、――「他人は是(これ)、我に非(あら)ず」と。まずひとこと。私は、これに度胆(どぎも)を抜かれました。――人は是、我れに非ず――。我れが非ずしてだれがあるか。要するに、まあ、修行というのは自分がやるんだ、と。他人に代わってやってもらってもね、そんなの何の意味もない。人は是れ、我れに非ず。こういうことを言われて、私は、これで、「はっ」と思いました。 そして、その次にね、「今でなくて、いずれのときか」と。今やらなく、いつやるんだ、というわけですね。涼しくなってから――、そのときがあると思っているのか。修行というのは、今しかないのだ。今やろうと思えば、今やらないでどうするんだ。涼しくなってやろうとか、そんなことではいけないんだ。人間というのは、先がないんだ、と。修行というのは、秋になったら、あるいは、夜になって涼しくなってからやろうとか、そういうもんじゃないんだ。修行とは、とき、ところを選ばない。今しかないんだ。こういうことを、その老僧侶は、私に言いました。私は、ここで二つ教わりました。 要するに、人は是、我れに非ず、他人は自分に代わって修行はできない――。自分の修行は自分でやるんだ。そして、その、機会は、今しかないんだ――と。結局、私が中国で学んだ教えは、この二点につきるかもしれません。 結局ね、自分がやらないで、他にやってくれる人はいないんです。そして、修行というのは、"今"しかないということです。私はこの二点をつかんで中国から帰ったのです。これが、「道元禅」のある意味では基礎でありましょう。それでね、その真剣に生きる、今に生きるという姿勢が、おそらく現代人にもね、私は受けているんだと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/401.html
目次 1.「他力門」の認識不足について 2.宇宙即 我 を生きる「聖道門」 3.「自力」とは、 絶対的自分 に生きること 4.個性向上に努める「自力門」、没個性、脱価値の平等観に堕す「他力門」 5.地獄界に新たにできた 念仏地獄 6.他力の教えは、死の苦痛を和らげる一時的な麻酔薬 7.自力の誤りと「自他力、混一」の悟りへ 8.光一元、善一元の「絶対力論」は、そのまま現世では通用しない 9.道元禅の「時間論」について 10.「悟り」とは何か。大きく分けて二段階 11.だれでも、一躍跳入、如来地には入れない。段階を最高度に発揮し、生きよ 12.未経験の他次元世界の悟りは説けるか 13. 道元禅 の起こりとその基礎 14. 道元禅 の限界について 15.私は今、菩薩界で「愛」について勉強している 16.坐禅だけでは悟れない。学んだ知識を生かし、利他行に励め 14."道元禅"の限界について 道元 まあこれはね、ある程度の自慢になりますが、ただ逆にね、私の限界もそこにあったということです。つまり、真剣に生きるということは、「道徳」をつきつめた生き方でありますわね。まあ、その段階にしかすぎないということ。悟りそのものではないということなんです、これは。要するに、私は、先程、二段階の悟りということを申しましたが、三次元的地上の悟りではあるのです。もう他人(ひと)は是、我れには非ず、と。我が修行して今に生きるんだと――。これは三次元の悟りです。 しかし、四次元以降、多次元世界の悟りにおいては、これは語っていないんです。はっきり言って、これではいけないですね。だから、宗教家というのは、この三次元とあの世ですね、多次元世界との間に、いわば黄金の懸け橋を掛ける役割なんです。ただ、懸け橋というのは、片側だけでは掛からないです。両側に掛けねばいけないですね。ですから、私のは、片方だけあって、もう一方の片側がなかったということですね。橋を掛けてなかった。では、あの世的な悟りとは何か。やはり肉体として、肉を持って生きていた私は、そこがわからなかったということですね。 まあ、現にこれはね、他にね、あなた、禅宗の方がたとも話をするんでしょうが、これはね、禅の限界でもあるんです。『無門関』とか、いろいろあるでしょうが、禅のほうでの悟りというのは、結局、ある意味において、私は悟っていないと思う。悟っていないというのは、その禅における悟りというのは、感触でしかないのですね。そういう雰囲気ですね。何かそういう違った自分ね、今までとは違った自分、「はっ」と思う、これを悟りと言うとるんですね。禅では。しかし、ほんとうは、はっと思うだけではすまないんです。「はっ」と思うのは、これはきっかけなんです。悟りの契機であり、きっかけであるけれども、悟りそのものの内容ではないのです。 たとえば、私の書いた本のなかにね、私は一度北陸のほう、北陸というか越前の「永平寺」ですね。ここへ行ったときのことなんですが、雷がずいぶん降っていましてね、雪がずんずん、ずんずん降っていましてね。私はその大自然というかね、北陸の大自然に心打たれたことがあります。そこで、「大地雪満満雪満満」そういうことを私、書いたことがありますが、その白い雷がね、神秘的に空から降ってきて、この地上をうずめつくしている相(すがた)。それは、この世のものであって、もうこの世のものではないような、そうした永遠の神秘を感じさせられるものであった――。 そういうものを見たときに、人間は、この世の世俗から離れて、どこか遠い世界へ、どこか遙かなる悟りの世界へ導かれるような気になるのです。「大地雪満満」だけどもね、その満満と雪が降っていても、それは日常生活から離れて、心があの世へ旅立つきっかけとはなっても、それ自体は悟りではないのです。 あるいは、昔のある僧侶は、禅僧というのは、まあ春ですね、春に丘を登っておって、「はっ」と振り返ると、そこに桃の花が咲いていた、と。その桃の花が一面に咲いて、下界に、素晴らしい霞(かすみ)たなびくような桃の花が咲き広がっていた。その桃の花の一面に咲いている風情(ふぜい)に心打たれて、「はっ」と悟ったということになっている人がいます。たとえばね、禅のなかに。しかし、それは悟っていないんです。悟ったのは、この世の世界のなかに、この世ならざるものを感じた。そういう永遠の世界を観じたということなんですね。 これは、ギリシャの哲学で言えば、プラトンという人が言っている「イデア」の世界ですね。このイデアの世界というのは、実は、そういう意味での悟りなんでしょうけどもね。「はっ」と思う、この世ならざる国ですね。これを感じたということ。ですから、私は禅の悟りというのは、ある意味において、三次元において三次元ならざるものを感じると、感知し得たということをもって悟りと言っているようなものですね。 あるいは、『無門関』第五則に出てくる香厳和尚(きょうげんおしょう)が、大燈国師の遺跡のある武当山で自らも庵(いおり)を結んで、竹を植え、住んでいた。あるとき、香厳が道路を清掃していると、箒(ほうき)で撥(は)ねた瓦(かわら)の一片が、竹林の竹に当たって、カーンと澄んだ音を立てた。彼は、それで悟った。と言っておりますが、あなた、それで悟ったと思いますか。 あなた、現在仕入れた知識、あの世のこと、この世のこと、いろんなこと考えた高級霊たちの話を聴いていた。どうですか。いくら修行していてもね、それで、瓦のかけらが竹にカーンと当たる音を聞いて、それで悟ったと彼は言っているが、あなた、それで悟ったとほんとうに思いますか。 それは、錯覚と言うんです。それは錯覚じゃないが、永遠なるものを感じたという意味でね、日常性を越えた何かを感じたのです。もちろん。あの世の世界の実在を感じたということですね。それ以上のものでは残念ながらないですね。その瓦のかけらが竹に当たって鳴る音を聞いて、如来や菩薩の悟りが聞けるかと言えば、聞けません。そうしたもんじゃありません。それは、あの世があるんだという、この世とあの世との一体化したような感じですね。そのようなものを感じ得たということですね。 ですからどうも、禅の流れを見てみると、その箒で掃いていて、瓦のかけらがね、竹に当たって、カーンと鳴るその音で悟ったというたぐいが、どうも多いようです、その後もね。悟りは思想じゃないんだと、そうした一瞬うちにとらえる感性なんだ、と。これもひとつなんですよ。これは悟りへのひとつのきっかけなんです。あくまできっかけであって、悟りそのものではないと思うのです。 ところが今もね、営々として、そうした議論が続いておって、坐禅を組んでいる人たちは皆んな、何か、「はっ」と思うものばかりを探しておるんです。はっと思う。はっと思うぐらいであればね、道を歩いておれば、綺麗(きれい)な女の子が通りかかって、「はっ」と思うことなど、いくらでもあるんです。しかし、それは悟りじゃないんです。綺麗なものが通って、「あっ、きれいだな」とは思う。これが悟りだと言っているんですね、要するに。たとえば、渋谷か、どこかの坂道を歩いている。と、綺麗な女子大生が来た。すれちがった。そこで、「はっ」と思った。振り返って、好みのタイプだなと思った。 これをもって、悟りとするか。否(いな)であります。これは、つまり、美しいものを見ただけであります。こういうように、「禅」の悟りというものを、自分か求めていた美しいものを見たということをもって、悟りとしているということが多いのです。これは誤りであります。これを超えていかねばなりません。 私も「道元禅」をつくったけれどもね、私自身が真に悟っていなかったために、後世の者たちがまた、それを真似(まね)る。ですから、悟りとは、何か分からない、もやっとしたものだと、ベールに隠されていて、文字によって説明できないものだと、こういうことになっています。何だか分からない、何とも言えないのがいいんだ、と。そういう不立文字もいいけれどね、どうもそういう神秘めかしたものに悟りがなってしまったようです。 ところが、悟りというのは、かなり明瞭なものです。結局ね、悟りとは、まあいろいろな言い方があるでしょうが、人生の使命を知るということですね。三次元の立場に立てばですよ。人間がどこから来て、なぜ人生修行して、そして、どこへ行くのか。なぜ人間が永遠の転生輪廻していくのか。神仏はどういう意図でもってね、人間に地上生活を送らしているのか。で、地上生活を送っていくうちにね、どうした生き方をするのが神仏の心に適(かな)っているのか。はたして、あの世の高級霊たちの導きを受けることができるんだろうか、まあ、こういうことを知るのが悟りですな、はっきり言えば。 だから、悟りというのは、言葉で説明できるんです。言葉で説明できないものとするのは、単にできなかったから、そう言っただけであって、できれば、そうすべきなんです。言葉で言えないようなものは悟りじゃない。しかし、そういう雰囲気に酔っている人が、非常に多い。とくに現代を見ていると。こんなもんじゃない。これは、あなた方に、言っておかねばなりません。 どうもね、禅をやる人というのは、そういう傾向が多い。人に分からないようなことを言うと、要するに、悟ったような気になる。人と議論して、要するに、煙に巻けば、それで自分のほうが上のような気になる。外人に説明して、外人などには分かるわけはない、と。この不立文字の世界はね、青い目をした外人などには分からない。こう言っているわけですね。この分かったようで分からないとこがいいんだ、と言っている。これは、言っている本人が分かっていない。 禅、というのは、パズルじゃないんだから、これはちがうんです。悟っていない人たちが、そういうことを言ってきたから悟れないんです。そういうことです。これが禅、の限界であります。ですから、そうした眼に見えない、分からないものを感じるのは、悟りのきっかけであって、この世的なものじゃないものを感じるのは、悟りのきっかけであって、坐禅をしていながら、そういうことを感じることがあるでしょう。永遠の今をね、感じることがあるのでしょう。これは悟りじゃない。悟りへのきっかけ、契機である、と。そういうものを感じたら、皆さん、どうかそれを大切にしなさい。ただその一歩奥を、一歩奥を踏み込んでいかなければいけないのです。 15.私は今、菩薩界で「愛」について勉強している 道元 まあ、私もできなかったことですけどね。そういうことで、地上にいたとき、私は、神界の悟りしかなかった。そしてまあ、あの世に還りました。あの世でもね、まだまだね、自分が修行しなければいけない、と。一生懸命修行に励んでおりましたけどね。 まあ、偉い方がたがね、如来や菩薩が来て、おっしゃるには、「道元よ!」と、「お前は、何をあくせくしとるのか。お前は、何か努力しなければ悟れないと思ってるようだが、そうじゃないんだぞ。お前自身は、もう神仏の子供そのものなんだぞ。お前は、努力してあくせくすれば悟れると思っているけど、そうじゃないんだ。もっとおおらかな気持ちを持って、自分の使命を悟れよ――」と、こう私は聴かされました。 私は、「いや、でも努力しなければ悟れないんじゃないですか」とうかがった。するとまた、こう言われた。「道元よ、それが神界の悟りなんだ。自分が勉強して悟れると思っているのは、まだ六次元神界の人間なんだ。菩薩の世界では、自分が勉強して、人以上に勉強してね、やらなければ悟れないなどとは、菩薩の世界の人は思っていないんだ。菩薩の世界の人は忙しく、人助けに忙しくて、自分を人より高めるなどということは言っていないんだ。自分を捨てて、人を救うために、ただ邁進しているんだ。それが、お前、菩薩の境地だぞ。だから、お前は、そういう自分という執われを捨てなければいかんぞ。自分が、自分が、と思っているうちは、人は救えない――」 こういうことを、私は如来や菩薩の人にずいぶん言われました。そしてまあ、そういうことを言われて、自分なりの修行、自分の形というものにね、どうも執われていた自分というものを反省しました。そしてまあ、何百年かしてね、しばらくして、まあ、菩薩界に上って行ったわけです。今、菩薩界で私が勉強しているのは何かと言うと、――恥ずかしながら、これは「愛」です。 「愛」とは何か、ということを今、私は勉強しています。「禅」にはね、まあ、どうしても、愛がないんです。自分が悟ろうとしても、どうも愛がないんです。自分が悟ろうという、ある意味では、自分を高くしたいという気持ちになってしまうんですね。純粋な気持ちもあるでしょうが、どうしても、人を活(い)かす、という気持ちが、禅のなかにはない。それどころじゃないんだと、自分で手いっぱいだというのが禅、なんですね、どうしても。 お釈迦様のほんとうの気持ちはというと、禅定して悟りを開いた後に、人びとを救う。そういうことがほんとうだったのですね。釈尊の本意は。ところが、釈尊の悟りを開くまでを延延(えんえん)とやっているのが、今の坐禅なんですね。これで止まってはいけないんです。悟りを開いて実践をしなけりゃいけない。ところが、開く前で止まっている。それは悟りを開けないからね、開いたらもちろん説きたいんだろうけど、開けないから、開く前で止まっている。釈尊が本領を発揮する以前のところで止まってしまっているんですね。これが私の教えの限界でもありましたし、私の修行の限界でありました。 16.坐禅だけでは悟れない。学んだ知識を生かし、利他行に励め 道元 皆さん、悟るためだけの修行で一生送ってはいけないんです。悟りの段階はいろいろあるんです。一生かかっても悟れません。ただ、自分の得た悟りの段階で、やはり他の人びとを救っていくことが大事なんです。 先程言ったアフリカの話ではありませんが、アフリカを知るまでは、アフリカの話はできない、と。こんなこと言っていたんでは、地理の先生は務まらないんです。歴史の先生は務まらないんです。自分はアフリカや、アメリカや、あるいは、イギリスヘ行ったことないから、これらの国の政治、経済、歴史のことは話せないと言っていたら、地理の先生は務まりません。高校の社会の先生は務まりません。行かなくとも、務まるんです。それはやはりね、仕事ですから、自分の全力をつくして、知れる限りを言えばいいんです。 英語にしてもそうです。英米人と同じように話せるようになったら、英語を教えられるかと言えば、そういうわけではない。自分がマスターしただけの知識でもって、子供たちに英語を教えるんでしょう。そうしたもんです。ですから、皆さん、小さな悟りに執われずに、要するに、人びとを導いていく、愛していくという気持ちを忘れちゃいけない。悟らなけりゃ教えられないという考えもありましょう。けど、悟りには限りがありません。そして、悟りというほんとうの感激はなくとも、知識として悟り得ることはできます。 自分たちが知り得た霊的知識があります。それを他の人たちに伝えていくこと自体はできるはずなんです。ですから、道元自体が、つまり、「道元禅」をはじめた道元自体が、そこでゆき当たって、今、「愛」の問題を研究しているということを、どうか地上の皆さんに知っていただきたい。 やはり最後はね、宗教というのは、最後は、神仏の道というものは、多くの人たちと手を相携えて、生きていくということなんです。ひとりひとりの小っちゃな殼(から)に入ってはいけない。釈尊が妻子を捨てて山に入り、坐禅を組んだのは、結局、多くの人たちを生かすための、あれは大いなる修行であっただけであります。修行そのものが目的であったのではないのです。修行を捨てたときに、彼は大いなる悟りを開いたのであります。 そういう菩薩行というのを、どうか皆さん、大切にして下さい。禅、をやっている人は、キリスト教の人たちが奉仕をしているのを見ると、馬鹿みたいに見えるかもしれない。何も知らないのに奉仕ばかりしている、と思うかも知れない。けれども、やはりあれは、教えの一面なのです。だからあれを捨てちゃあいけません。 まあ、人生の悩みを解くためにね、坐禅に行っている人たちがいっぱいいるけれども、坐禅ばっかりでは悟れません。私は悟れなかったんだから。 ましてや、後世の人たち、私の教えを受けた僧侶に指導を受けても、悟ることはできないです。もっとも、何かをつかむことはいいです。自分の悩みを解決するために、何かをつかむことはいいですが、あまり悟り、悟りということに追われずに、あなた方の環境において、できるだけのことを、多くの人たちに対してやっていくということ、それは大事です。どうかそういう観点を忘れないでいただきたいと思います。まあ、"道元の限界"ということですが、これについて何かありますか。 ―― いや、大変有意義なお教えをいろいろと賜って、感謝しております。他力、自力、絶対力論の問題から、時間論、悟りの段階論、あるいは、道元禅の起こりとその基礎、さらには、道元禅の限界について、また、悟りの飛躍と、菩薩行としての愛行の理解について、このような幅広い論点を明快に、説得力ある論調でお説き下さって、ありがとうございました。他力、自力行者を問わず、おそらく現代人は、並べて警策(きょうさく)をちょうだいしたことと存じます。「愛」の問題は、これはまた段階があり、幅広い視点があろうかと思いますが、最後に、現代の若者に対し、何か助言、指導のお言葉をいただければ幸いと存じますが。 道元 まあ、「愛」の問題は、私に聴くより、多分他の方にお聴きしたほうがいいでしょう。それとまあ、現代の若者たちに対する助言ということですが、若者たちにはね、今、私の言った言葉、「坐禅」というのは、必ずしもお寺へ行ってやるもんじゃありません、と。夜、自宅に帰ってから、一時間ぐらい心を静めて、自分自身の心と、守護、指導霊と対話すればいいですから、そういう自分自身を見つめられる時間というのは大事です。 ただ、もちろん、そればかりではいけません。自分自身を見つめたら、それをね、それで得たものを人に返していく。そういう努力は、大事です。親、兄弟、友だちと不調和のままで、坐禅ばかりしても、決して悟れません。やはり周りの人たちを活かしていく努力、自分が悟ったらその分だけ返していく努力、これをしていかねばいけません。不調和をつくるための坐禅であってはなりません。つまり、調和ということを、その大切さを、どうか噛締(かみし)めていただきたいと思います。 ―― それでは、道元先生、長時間にわたって、朝来のご説法、まことにありがとうございました。 道元 ――還ります――。
https://w.atwiki.jp/zenshoji/pages/14.html
本堂 本尊 画像はwikipediaより転載。妙法院蔵 本尊は千手観音です。さまざまな苦を抱える人々に対し、どんな苦でも取り除く無限の慈悲を千本の手に象徴されます。さらに深読みしますと、千本の手は大自然のさまざまな姿を象徴します。鳥は飛んで鳥のままに、魚は泳いで魚のままに、それぞれあるがままの世界こそが悟りの世界であり、本来救われている世界です。千手観音さまの真言は「おん ばざら だらま きりく (そわか)」ですが、密教と違って禅宗では本来、無言を好みます。何もお唱えせず、寂かにお参りいただいて結構です。しかし善昌寺は密教のお寺様方と一緒に瀬戸内観音・備後西国霊場に名を連ねておりますので、密教式で真言をお唱えいただいても結構です。お心次第です。 須弥壇(しゅみだん) 善昌寺の須弥壇 br#ref error :画像URLまたは、画像ファイル名を指定してください。 入って正面の高い台に本尊さまが安置されています。これを須弥壇と言います。左右に階段がありますが上るのは厳禁です。古代インドの世界観で世界の中心にある山を須弥山(しゅみせん)と呼びます。この須弥山になぞらえて須弥壇と呼ばれます。一番奥の幕の中に本尊さまが安置されます。その手前の3つの位牌は中央が道元禅師、向かって右が瑩山禅師、左が最初に善昌寺を開いた仏心慧燈国師(ぶっしんえとうこくし)の位牌です。須弥壇の左右の柱に掛けられている書には、右に扶桑大小神祇(ふそうだいしょうじんぎ)、左に三国伝燈祖師(さんごくでんとうそし)と書かれています。扶桑とは古い言葉で日本の意味を指し、扶桑大小神祇で日本全国の八百万の神々を指します。三国とはインド、中国、日本のことです。伝燈(灯)とはロウソクの火を次のロウソクに移すように、師から弟子へ脈々と教えを伝えていくことです。つまり三国伝燈祖師でお釈迦さまから代々続くお師匠さまがたを指します。 達磨大権(だるまだいげん) 達磨大師 br#ref error :画像URLまたは、画像ファイル名を指定してください。 大権修利菩薩(だいげんしゅりぼさつ) br#ref error :画像URLまたは、画像ファイル名を指定してください。 須弥壇の左右の通路の上にも仏像があります。右が大権(だいげん)さま、左が達磨さまです。達磨さまは禅宗の中国に最初に禅を伝えたお祖師さまとして有名です。大権さまは曹洞宗しか祀らないためあまり知られていません。元は中国にある、貿易船が多く行き来する海を臨む山の神さまであり、航海の安全を守っていました。遠くを眺めるように手を挙げている姿はそのためです。曹洞宗では道元禅師の修行留学に縁が深く、お寺の守護者として祀ります。道元禅師は中国に修行留学した最後の夜、全十巻の貴重な本(公案集)と出会ってしまいました。道元禅師はこれをなんとしても書き写して日本に持ち帰りたいと考え、十冊すべてを一夜で書き写しました。一夜で十冊を書き写すというのは並大抵のことではありませんが、この時、大権さまが現れて手助けしたという伝説があります。 賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ) 賓頭盧尊者 br#ref error :画像URLまたは、画像ファイル名を指定してください。 お釈迦さまのお弟子さまの中でも特に優れた十六羅漢の第一に数えられます。赤く塗られているのは満ちあふれる生命力を象徴しています。日本では「病人が自分の患部と同じところを撫でると病気が治る」という撫で仏の信仰があります。東大寺大仏殿の前にある賓頭盧さんが有名です。不飲酒の戒を犯してしまったため仏殿の中に入れてもらえないのだという話がありますが、ちゃんとした辞書で調べてもその記述はなく、インドや中国では良い扱いで祀られているようです。姿が赤いことと東大寺で外に祀られていることから後付けで生まれた風説かもしれません。外に祀られていた事情は、当時、一般人が仏殿の中に立ち入ることが出来たかどうかが関わってくると思われます。 うぐいす張りの廊下 r#ref error :画像URLまたは、画像ファイル名を指定してください。 構造(クリックで拡大)wikipediaより 歩くとキュッキュツと音が鳴ります。床下に日本の釘が設置され、歩いた重みで擦れて音が鳴る仕組みです。京都府の知恩院、二条城のものが有名です。善昌寺では1560年の本堂建て替えの際に京都より名工を招いて制作されました。日本の伝統技術ですが、その技術は失われ今日では同等の床の製作は難しいそうです。本堂内にご参拝の折にはご自由に歩いていただいて結構ですが、走ったり大きな荷重のかかることはご遠慮ください。 戦災供養塔
https://w.atwiki.jp/gosyutan/pages/634.html
道元禅師を慕う釈迦三十二禅刹をお訪ねしております。 特 番 吉祥山永平寺 大本山 特 番 諸嶽山総持寺祖院 大本山 第17番 万年山久永寺 第23番 円通山永賞寺 第24番 勝載山永厳寺 第31番 老梅山吉峰寺 釈迦三十二禅刹は、曹洞宗の宗祖道元禅師の教えに学び、正しい仏法の実践を目指そうという趣旨で、平成8年に開創された霊場。永平寺、総持寺祖院の両本山を中心に北陸・関西の34の寺院からなり、「禅語」の朱印が頒布されます。 2016年4月5日打ち始め。
https://w.atwiki.jp/redstone_gau/pages/38.html
がう帝国のお部屋 ペリグロッソ 愛称 持ちキャラ ペリグロッソ 道元禅師(BIS) 夏蜜柑(アチャ) ━━━━━━━━━━ [紹介文]
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/3292.html
誕生寺 京都府京都市伏見区、誕生寺の御朱印「高祖大師」です。 道元禅師の生誕地になります。 釈迦三十二禅刹の禅語「本来無一物」です。 ★住所 京都府京都市伏見区久我本町2-10 -
https://w.atwiki.jp/gosyutan/pages/349.html
福井県永平寺町志比の曹洞宗 大本山 吉祥山永平寺(きちじょうざん えいへいじ)をお訪ねしました。 道元禅師祖廟の御朱印「承陽殿」です。 釈迦三十二禅刹の特別札所です。禅語は「積善餘慶」。 所在地 福井県吉田郡永平寺町志比5-15